大相撲

物言い後の変遷

2017年6月24日

昭和33年は様々なことが施行された。まず、
七月に名古屋で本場所が開催されて年6場所
制がスタートした年である。次に大日本相撲
協会の名称の大をとって財団法人日本相撲
協会にしたことである。現在は公益財団法人
日本相撲協会である。さらに、この年から
行司部屋が独立した。勝負をさばく立場
から公正にということであったが、昭和
48年に元の相撲部屋に戻っている。

さて、昭和33年からスタートして最も書き
たかったことは、物言い際の協議内容をその
まま流したことである。これまでは決定した
判定を行司が勝ち名のりをあげるか、取り
直しとして対応するだけだった。なお、当時
は審判といわず、勝負検査役といっていた。
一月場所から十両以上の取組を正面検査役が、
超短波マイクをもって、あくまで物言いの
協議そのものを場内に流すというものであっ
た。
150123十三日目幕内 1055
しかし、これではへたなことを言ったり、
言葉遣いが悪かったりでまずいということで
おとなしめの発言となってしまった。昭和44
年五月場所からビデオが導入される以前は、
勝負検査役は一門の利益代表的側面があった。

昭和40年一月場所から、正面検査役から話を
聞いて楯山(元幡瀬川)、秀の山(元
笠置山)が説明係となって場内に説明する
スタイルに変わった。もっとも秀の山(元
笠置山)のほうが出番が多かった。

昭和43年三月場所から勝負検査薬が審判員と
改められ、審判長が場内に説明することに
なった。今日のスタイルである。春日野(元
栃錦)などは説明を訂正するのに「もとい」
と言って、場内がわいたりした。
五月場所の写真の整理がようやく
終わりそうです。

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よしなに
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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