大相撲

横審誕生以前の横綱の昇進4

2017年4月28日

このテーマはすっかり間が開いてしまって誠
に恐縮だが、改めて再開したい。なお、以前
どのようなことが書かれていたか、思い出し
ていただくため、下記をクリックして参照
していただければ幸いである。

横審以前A
男女ノ川は、体格は堂々たるもので、期待は

大きかった。だが、勝つときは豪快無双の
相撲ぶりも、負けるときは下位にあっけなく
敗れるなど、安定しなかった。優勝は2回。
最初は春秋園事件で脱退した後、復帰した
場所で、もう1回はその2場所後の関脇の
ときである。男女ノ川は横綱直近の場所に
優勝はなく、横綱昇進後も優勝はない。双葉
山の躍進とともに存在感がすっかりうすれて
いった。
男女ノ川
<男女ノ川のブロマイド>
 
双葉山は大関で連続全勝優勝して文句なしに
横綱に昇進した。大関以前の関脇でも全勝
優勝している。つまり、双葉山は3場所連続
全勝優勝して、横綱に昇進したのである。
このような例は過去にも、現在までにもない。
このとき双葉山は69連勝の途上であった。

双葉山はけして奇襲や作戦的な相撲を取らず、
相手との力の差を肌で感じとっていた。玉錦
に6連敗していたが、1度勝ちだしたらもう
負けなかった。現在水は1度しかつけないが、
これは双葉山が始めたものだった。当時は
仕切り直しのたびに水をつけることが多かっ
た。双葉山は「土俵にあがったら、余分な
ことはすまい」と考えたという。

また、双葉山といえば、相手が立てばいつ
でも立つ立ち合いであった。これは下のころ
から心がけていた。このことを双葉山は「1
日に10分だけ集中すればいいのです」とこと
もなげに語っていた。10分というのは当時の
仕切り制限時間である。
双葉山
<双葉山のブロマイド>
 
双葉山に傾倒し、相撲を見る基準を双葉山に
おいた小坂秀二氏は次のように書いている。

土俵上の双葉山に、単なる力闘者ではない、
求道者の姿を見たのは、決して私ひとりでは
あるまい。双葉山の求めたものは、相手から
得られる勝利でもなく、まして観衆の賞賛
でもなかった。また、単なる相撲技の習熟、
完成というものでもなかった、言うなれば、
相撲を通じての自己完成への努力であろう。
(がちんこ相撲-だれが現代の双葉山か-
小坂秀二著 いんなとりっぷ社刊より)

羽黒山は双葉山の弟弟子である。双葉山の陰
に隠れて優勝できないことが多かった。

双葉の陰A

羽黒山が初優勝したのは双葉山が8回目の
優勝をした翌場所の昭和16年夏場所であった。
大関羽黒山はこの1回の優勝で横綱に昇進
した。2場所前が14勝1敗だから連続14勝
1敗で横綱を決めたわけである。
羽黒山政司
<羽黒山のブロマイド>
 
取り口は堅実で、双葉山の柔に対し、剛で
あった。羽黒山が花開いたのは双葉山の晩年
から戦後である。終戦の秋場所から4連覇
している。しかし、この時期は相撲どころ
ではなかったところに羽黒山の不運があった。

昼食はマグロ二色丼です。
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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