現在でこそ職業相撲の団体は1つだが、江戸時代、力士
集団は地域ごとにあった。主に江戸、大坂、京都が中心
であった。明治には東京・大坂・京都で合同興行をおこ
なったり、力士の移籍もあった。初代梅ヶ谷は大阪から
来た力士である。大正時代、京都は人数が少なく、大阪
と合同で興行していた。
明治の末から東京と大阪の相撲協会の合併への動きはあ
った。しかし、話が折り合わず、交渉は決裂していた。
大正時代、大阪は養老金(退職金)問題で力士が激減し、
東京は関東大震災で部屋・住居・興行場を失って、弱っ
ていてもまとまらなかった。
合併へと動き出すきっかけとなったのは、1つは東京の
財団法人認可への動きである。もう1つは昭和天皇(当
時摂政官)の御下賜金から天皇賜杯(当時摂政官賜杯)
を制作し、優勝力士に授与することにしたことである。
この光栄を大阪にもと呼びかけたのである。
大正14年、合併の調印が大阪でおこなわれた。合併の準
備段階として両協会は独立した大日本相撲連盟をつくっ
た。そこで連盟相撲を3回にわたって行い、新しい番付
をつくった。大阪相撲の劣勢は明らかだった。大正15年、
両協会は解散し、新たに大日本相撲協会を設立した。昭
和2年の(昭和元年は7日しかない)幕内の新番付では、
大阪方はわずか6人しかいなかった。大阪横綱の宮城山
の実力は小結程度といわれた。