大相撲

昭和・平成の10大ニュース2 春秋園事件

2015年11月17日

春場所の新番付は昭和7年1月5日に発表された。しか
し、この番付で興行がおこなわれることはなかった。大
相撲をゆるがす大事件が起きたためである。

新番付は、出羽海勢が東方から西方に変わり、そこへ西
方だった錦華山が出羽海の方屋に移ってきた。西方は、
彼以外はすべて出羽海部屋の力士で占めていた。武蔵山
が大関に昇進していた。

事件は6日におきた。幕内西方の全力士20人と十両の出
羽系11人が、品川大井町の中華料理店春秋園に集結した。
目的は大相撲の近代化へ向け、力士生活の安定化、大相
撲の大衆化、協会の制度改善である。中心人物天竜がま
とめ、協会に要求決議書10ヶ条を訴えたのである。春秋
園事件の勃発である。
 
これに対し協会は1月7日回答した、が検討する、考
慮するが目立ち、具体性に欠けた。茶屋や年寄制度など
絶対飲めない項目があった。また協会は財政上赤字であ
り、利息の支払いもままならなかった。あまりにも誠意
なき協会の回答に憤慨した出羽系の力士たちは、1月9
日脱退状を協会に提出。協会も除名破門で応じた。あま
りにも早い結論は後戻りできない状態へと突入した。

1月10日出羽系中心の力士は大日本新興力士団として旗
揚げすることに決定した。1月12日に右翼団体国粋会が
調停を申し入れるが、大日本新興力士団はこれを断った、
その夜、武蔵山はひそかに春秋園を脱出した。このあと
も国粋会との調停は続くが、物別れに終わり、1月16日
出羽ヶ嶽を除く新興力士団は詫びとして髷を切った。
絵葉書 天龍 
<髷を切った天竜>
 
1月25日武蔵山が出羽海部屋に帰参した。3日前に本場
所開催を決定していた協会は喜んだ。しかし、誠意なき
回答の協会に利用されるとふんだ東方力士9人と十両
力士8人が、革新力士団として脱退した。後に剣岳も加
わった。十両以上で残ったのはわずか15力士であった。

元両国(前名国岩)の出羽海は責任を取って取締を辞任
し、相談役となった。混乱は1年間続いたが、新興力士
団と革新力士団の興行は最初こそうまくいったが、最終
的にはいきづまり、脱退組のうち武蔵山を含め鏡岩・朝
潮・出羽ヶ嶽ら22人が最終的に協会に復帰する結末を迎
えた。
春秋幕内A
春秋十両A

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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