春場所の新番付は昭和7年1月5日に発表された。しか
し、この番付で興行がおこなわれることはなかった。大
相撲をゆるがす大事件が起きたためである。
新番付は、出羽海勢が東方から西方に変わり、そこへ西
方だった錦華山が出羽海の方屋に移ってきた。西方は、
彼以外はすべて出羽海部屋の力士で占めていた。武蔵山
が大関に昇進していた。
事件は6日におきた。幕内西方の全力士20人と十両の出
羽系11人が、品川大井町の中華料理店春秋園に集結した。
目的は大相撲の近代化へ向け、力士生活の安定化、大相
撲の大衆化、協会の制度改善である。中心人物天竜がま
とめ、協会に要求決議書10ヶ条を訴えたのである。春秋
園事件の勃発である。
これに対し協会は1月7日回答した、が検討する、考
慮するが目立ち、具体性に欠けた。茶屋や年寄制度など
絶対飲めない項目があった。また協会は財政上赤字であ
り、利息の支払いもままならなかった。あまりにも誠意
なき協会の回答に憤慨した出羽系の力士たちは、1月9
日脱退状を協会に提出。協会も除名破門で応じた。あま
りにも早い結論は後戻りできない状態へと突入した。
1月10日出羽系中心の力士は大日本新興力士団として旗
揚げすることに決定した。1月12日に右翼団体国粋会が
調停を申し入れるが、大日本新興力士団はこれを断った、
その夜、武蔵山はひそかに春秋園を脱出した。このあと
も国粋会との調停は続くが、物別れに終わり、1月16日
出羽ヶ嶽を除く新興力士団は詫びとして髷を切った。
<髷を切った天竜>
1月25日武蔵山が出羽海部屋に帰参した。3日前に本場
所開催を決定していた協会は喜んだ。しかし、誠意なき
回答の協会に利用されるとふんだ東方力士9人と十両
力士8人が、革新力士団として脱退した。後に剣岳も加
わった。十両以上で残ったのはわずか15力士であった。
元両国(前名国岩)の出羽海は責任を取って取締を辞任
し、相談役となった。混乱は1年間続いたが、新興力士
団と革新力士団の興行は最初こそうまくいったが、最終
的にはいきづまり、脱退組のうち武蔵山を含め鏡岩・朝
潮・出羽ヶ嶽ら22人が最終的に協会に復帰する結末を迎