大相撲

一人横綱の時代1

2015年8月25日

昭和47年一月場所から七月場所までは誰が優勝するかわ
からない戦国場所だった。事実一月場所は平幕栃東、三
月場所は関脇長谷川、五月場所は関脇輪島、七月場所は
平幕高見山であった。全員初優勝であった。それだけで
はない。翌場所の成績が長谷川・輪島は8勝7敗、栃東
は途中休場、高見山は5勝10敗と散々な成績に終わって
いる。地力優勝でないことが露呈してしまった。
北の富士A
<北の富士>
原因は一人横綱北の富士の不振である。その前年昭和46
年10月、横綱玉の海が急死してしまった。安定感抜群、
腰で取る相撲、亡くなる直前の九月場所では貴ノ花相手
に二枚腰をみせた。その玉の海をなくしたため、横綱は
北の富士一人になってしまった。十一月場所こそ北の富
士は優勝したが、翌年の昭和47年一月から七月まで、7
勝7敗1休、9勝6敗、3勝6敗6休、全休と一転して
進退をかけるほど追い詰められてしまった。
大関は琴桜、清国、大麒麟と3人いたが、まるであてに
ならない状態だった。三月場所までは前の山も大関だっ
たが、その場所の琴桜-前の山戦は監察委員によって立
ち合いが無気力と認定されたほどである。なお、北の富
士は不振4場所後の九月場所で全勝優勝し復活した。
宮城山
<宮城山の絵葉書>
横綱が実質地位化された常陸山以降一人横綱の時代はど
れくらいあったのだろうか。初めての一人横綱は宮城山
である。もう一人の横綱常ノ花が昭和5年夏場所で引退
したことによって生じた。宮城山は横綱とはいえ、大阪
横綱で東京相撲の横綱の実力はなかった。一人横綱は2
場所務め引退した。昭和6年三月場所のことであった。
しばらくは横綱不在の時代となった。
玉錦
<玉錦のブロマイド>
3連覇しても横綱になれない玉錦が横綱に昇進したのは
昭和8年春場所であった。横綱不在の時代だから当然一
人横綱である。ここから3年6場所玉錦の一人横綱時代
は優勝3回優勝次点2回と堂々たる成績をあげた。武蔵
山の横綱昇進で玉錦の一人横綱は解消した。
大鵬 003
<大鵬>
横綱量産時代はさすがに一人横綱はいない。大鵬は一人
横綱なら優勝のチャンスが増えると思っていた。だが、
自身が一人横綱の昭和44年九月場所から昭和45年一月場
所の3場所間は休場が2度あり、1度も優勝できなかっ
た。大鵬が一人横綱になったのはライバル柏戸が引退し
たからである。柏戸はもっと早く引退したかったが、後
継者がおらず、無理して横綱を勤めていた。柏戸は9勝
6敗を2場所続けた翌場所1勝2敗後引退した。大鵬の
一人横綱は北の富士・玉の海の同日横綱昇進によって解
消された。大鵬は王者の意地で後輩横綱2人に新横綱優
勝と全勝優勝を阻止した。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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