昭和47年一月場所から七月場所までは誰が優勝するかわ
からない戦国場所だった。事実一月場所は平幕栃東、三
月場所は関脇長谷川、五月場所は関脇輪島、七月場所は
平幕高見山であった。全員初優勝であった。それだけで
はない。翌場所の成績が長谷川・輪島は8勝7敗、栃東
は途中休場、高見山は5勝10敗と散々な成績に終わって
いる。地力優勝でないことが露呈してしまった。
<北の富士>
原因は一人横綱北の富士の不振である。その前年昭和46
年10月、横綱玉の海が急死してしまった。安定感抜群、
腰で取る相撲、亡くなる直前の九月場所では貴ノ花相手
に二枚腰をみせた。その玉の海をなくしたため、横綱は
北の富士一人になってしまった。十一月場所こそ北の富
士は優勝したが、翌年の昭和47年一月から七月まで、7
勝7敗1休、9勝6敗、3勝6敗6休、全休と一転して
進退をかけるほど追い詰められてしまった。
大関は琴桜、清国、大麒麟と3人いたが、まるであてに
ならない状態だった。三月場所までは前の山も大関だっ
たが、その場所の琴桜-前の山戦は監察委員によって立
ち合いが無気力と認定されたほどである。なお、北の富
士は不振4場所後の九月場所で全勝優勝し復活した。
横綱が実質地位化された常陸山以降一人横綱の時代はど
れくらいあったのだろうか。初めての一人横綱は宮城山
である。もう一人の横綱常ノ花が昭和5年夏場所で引退
したことによって生じた。宮城山は横綱とはいえ、大阪
横綱で東京相撲の横綱の実力はなかった。一人横綱は2
場所務め引退した。昭和6年三月場所のことであった。
しばらくは横綱不在の時代となった。
3連覇しても横綱になれない玉錦が横綱に昇進したのは
昭和8年春場所であった。横綱不在の時代だから当然一
人横綱である。ここから3年6場所玉錦の一人横綱時代
は優勝3回優勝次点2回と堂々たる成績をあげた。武蔵
山の横綱昇進で玉錦の一人横綱は解消した。
<大鵬>
横綱量産時代はさすがに一人横綱はいない。大鵬は一人
横綱なら優勝のチャンスが増えると思っていた。だが、
自身が一人横綱の昭和44年九月場所から昭和45年一月場
所の3場所間は休場が2度あり、1度も優勝できなかっ
た。大鵬が一人横綱になったのはライバル柏戸が引退し
たからである。柏戸はもっと早く引退したかったが、後
継者がおらず、無理して横綱を勤めていた。柏戸は9勝
6敗を2場所続けた翌場所1勝2敗後引退した。大鵬の
一人横綱は北の富士・玉の海の同日横綱昇進によって解
消された。大鵬は王者の意地で後輩横綱2人に新横綱優
勝と全勝優勝を阻止した。
記事をお読みいただきありがとうございます
よければこちらをクリックいただけると幸いです。”土俵の目撃者”
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑