大相撲

二所ノ関の系統1

2014年8月16日

元二所ノ関親方の金剛が65歳の若さで亡くなられた。
体調を崩し、定年前に退職していたが、まさかこんなに
早くという思いである。協会退職のとき、二所ノ関部屋は
力士は引退し、親方は若島津の松ヶ根部屋に移籍した。
名門二所ノ関が跡形もなく消えるのはあまりにも寂しすぎた。
二所ノ関は本家・分家で11人の横綱を輩出し、分家独立は
17を数える名門である。こうした発展はどのような経緯を
経てきたか一覧にしたのが以下である。
二所系統
二所ノ関の祖は海山である。海山とはどういう力士か。
実は海山という四股名の力士は複数いる。明治17年入幕
し、年寄り友綱となったのが初代海山である。彼が育てた
弟子に太刀山、国見山そして2代目海山がいた。この2代目
海山が横綱玉錦の師匠にあたる。なお、初代海山の友綱
部屋は現在の友綱部屋とのつながりはない。

2代目海山は関脇まで昇進した怪力で人気のある力士
だった。芸者を碁盤にのせて片手で持ち上げるエピソード
は2代目海山によるものである。1907(明治40)年二所
ノ関との二枚鑑札
(現役と師匠を兼ねる制度で現在は
禁止されている)となり、1909(明治42)年春場所
を最後に土俵を去った。両国国技館開設の前であった。

海山と同じ郷土の高知ということで少年玉錦が入門したが、
小部屋であったため、部屋に土俵がなく、当時一大勢力を
誇る出羽海部屋の預かり弟子として稽古した。この預かり
弟子は隅っこで小さくなっているようなタマではなかった。
ケンカ玉といわれるほど喧嘩早かったし、ボロ錦と呼ば
れるほど稽古熱心だった。

玉錦は成績は足りているのだが大関・横綱にストップが
かけられ、すぐに上がれなかった。強くなっても小部屋の
悲哀は続いた。大関時代の1932(昭和7)年師匠の二所
ノ関(元2代目海山)が亡くなり、弟子は粂川(元鬼龍山)
部屋に預けられた。玉錦が二枚鑑札が認められる1935
(昭和10)年まで続いた。

玉錦は弟子集め、その育成に熱心に取り組んだ。1938
(昭和13)年ごろは60人以上の弟子を抱えていた。関取の
玉ノ海、佐賀ノ花をはじめ幕下以下に若ノ花(後の大ノ海)、
神風、福住(後の玉乃海)、琴錦らがいた。彼らが育っていき、
将来の大二所の礎が築かれていった。しかし、玉錦は志半ば
急性虫垂炎で帰らぬ人となった。1938(昭和13)年暮れのこと
だった。
玉錦★
<玉錦のブロマイド>

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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