大相撲

大正時代の大関陥落事情

2014年6月18日

2014年3月16日「◆問題点を探る 大関陥落制度を考察
する1」で大関陥落制度の歴史を探ってきて1958(昭和33)年
から始まった3場所連続負け越し以前の2場所連続負け越しで
陥落は1927(昭和2)年の東西合併以降からと書いた。また
明治・大正時代はまったく別である。機会があったら触れて
みたいとも書いた。今回まず、大正の大関の陥落事情を検証
してみる。

大正時代は横綱は太刀山、大錦、栃木山が活躍した時代で
ある。また、常ノ花が昭和にかけて台頭してきた時代である。
なお、大正時代は年2場所、取組は東西制である。歴史を
遡る形でみてみる。

大正時代の大関陥落例をあげる。

◆条件付の昇進、陥落 
九州山十郎
1917(大正6)年 夏場所 西小結  7勝3敗
1918(大正7)年 春場所 東関脇  4勝3敗1預2休
1918(大正7)年 夏場所 東大関  1勝1預8休
1919(大正8)年 春場所 東大関 5勝5敗
1919(大正8)年 夏場所 東小結 10休

九州山は新大関の場所を負け越し、次は五分で小結に
陥落。この間の事情を酒井忠正著日本相撲史中巻(ベース
ボール・マガジン社刊)は次のように記している。

五分で小結まで落とされたのは過酷の感がある。しかし
この九州山が大関に昇進したのは、栃木山が横綱となって
大関が欠位となったため、尚早ではあるが二場所不成績の
場合は大関から降位させるとの条件付で、大関の位地に
ついたのだという。

つまり、直前の成績が4勝3敗1預2休(しかも東西
制で)にもかかわらず、大関が空位のため条件付で昇進
させた。日本相撲史に書かれている不成績とはどの程度を
意味しているのか。6勝4敗もはいるのか。2場所と
書かれているのは連続か。あるいは大関在位中2回あった
場合か。それともその辺はあいまいだったのか。現代なら
考えられない昇進と陥落である。

◆1場所負け越しで陥落
対馬洋 
1918(大正7)年 夏場所 東小結 6勝2敗2預
1919(大正8)年 春場所 東張関 6勝1敗3預
1019(大正8)年 夏場所 東大関 6勝4敗
1020(大正9)年 春場所 東大関 4勝6敗
1920(大正9)年 夏場所 西関脇 10休  

これを見る限り対馬洋は1場所負け越しで関脇に落ちて
いるが、成績ではわからない事情があるのかもしれない
ので再び日本相撲史をひも解く。

大関対馬洋は前々場所二番勝ち越し、前場所は二番負越し
で関脇に下される。今一場所張出に据えられてもよいと
思われるのだが、少々酷にすぎると思われる。

予想外の陥落だが、2場所連続負け越しという規定は
なかったことがわかる。落とした理由は2場所通算で
五分と考えられる。対馬洋の大関在位はわずか2場所で
終わった。

◆3場所連続負け越しで陥落1場所で復帰 
千葉ヶ崎
1918(大正7)年 夏場所 西大関 7勝3敗
1919(大正8)年 春場所 西張大  5勝3敗2預
1919(大正8)年 夏場所 西大関  3勝7敗
1920(大正9)年 春場所 西大関  7勝2敗1分
1920(大正9)年 夏場所 東大関  6勝2敗1分1預
1921(大正10)年 春場所 東大関  2勝7敗1預
1921(大正10)年 夏場所 西大関  4勝6敗
1922(大正11)年 春場所 西張大  4勝5敗1分
1922(大正11)年 夏場所 東張関  6勝1敗3分
1923(大正12)年 春場所 西張大 10休
1923(大正12)年 夏場所 東小結 6勝4敗1分

ここへきてとんでもない例がでてきた。2場所連続負け
越しても陥落していないだけではなく、1場所で大関に
カムバックしているのである。日本相撲史の記述は実に
あっさりしている。

2場所連続負け越し後の大正11年春場所は千葉ヶ崎は
不成績を重ねたが張出大関に止まり、さらに大正11年
夏場所は大関千葉ヶ崎は春場所不成績で、前場所も一番
負越したため張出関脇に落ち…

と特別な記述はない。東西別々の番付編成の基、大正10年
は横綱なしの一人大関で横綱大錦、栃木山、大関常ノ花を
向こうにまわして孤軍奮闘であった。しかし、2場所負け
越し後の大正11年春場所は源氏山(後の西ノ海)が大関に
昇進し、大関不在になるとも思えないが。厳密には陥落の
規定がなかったからいかようにもできたのだろう。

陥落後1場所で復帰したのも規定があったわけではない
ようだ。この2つはしいていえば東西制では、相手方の
横綱大錦、栃木山、大関常ノ花に対して番付上少しでも
バランスを取りたかったのではないかと思われる。

◆4場所連続不成績で陥落なし
伊勢ノ浜
1914(大正3)年 夏場所 西張大 6勝2敗1分1預
1915(大正4)年 春場所 西張大 1勝3敗2分4休
1915(大正4)年 夏場所 西大関 4勝6敗
1916(大正5)年 春場所 西張大 2勝8休
1916(大正5)年 夏場所 西大関 2勝6敗1預1休
1917(大正6)年 春場所 東張大 6勝3敗1休

伊勢ノ浜が4場所連続不成績にも関わらず、大関の地位を
保っている。日本相撲史はいっさい触れていない。しいて
いえば、この時代は休場に対して寛大な面があったと
思える。

大正時代の大関陥落事情はケースバイケースとしかいい
ようがない。
<写真は千葉ヶ崎の絵葉書>
千葉
 

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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