大相撲

◆問題点を探る 大関陥落制度を考察する2

2014年3月17日

2場所連続負け越しで大関陥落、それではそれは
いつ始まったのか。どうも1927年(昭和2年)の
東京・大阪の東西大相撲合併以降の中で制度化された
といわれている。ただし、それ以降の番付編成の
変則制により、実情にあわないケースもでてきた。
1927(昭和2)年の一月場所の東西合併による番付
作りから1932(昭和7)年までの期間である。

1927(昭和2)年
一月場所    東西合併による番付作成
三月場所(大阪)一場所と同じ番付
五月場所     一月場所の成績を基に番付を作成
十月場所(京都)三月場所(大阪)の成績を基に
              番付を作成

1928(昭和3)年
一月場所     前年の五月場所の成績を基に
               番付を作成
三月場所(名古屋)前年の十月場所(京都)の成績を
                 基に番付を作成
五月場所         一月場所の成績を基に番付を作成
十月場所(広島)   五月場所と同じ番付

1929(昭和4)年
一月場所     前年の五月場所と十月場所(広島)
              の成績を基に番付を作成
三月場所(大阪) 一月場所と同じ番付
五月場所       一月場所と三月場所(大阪)の
                成績を基に番付を作成
九月場所(名古屋)五月場所と同じ番付

1930(昭和5)年~1932(昭和7)年の番付編成は
1929(昭和4)年と同様東京場所と西日本場所の
2場所の成績を基に次の東京場所の番付を編成し、
次の西日本場所も同じ番付を使用した。

このような変則番付編成では2場所連続負け越しでも
落ちないケースが発生する。この時期2場所連続
負け越した大関は3人いる。大ノ里、能代潟、常陸岩
である。大ノ里は1931年(昭和6年)五月場所から
2場所連続負け越しているが、翌年春秋園事件で協会
から脱退している。

常陸岩の場合
1928(昭和3)年
三月場所(名古屋)11休  
五月場所        4勝4敗3休  
五月場所の次の場所は五月場所と同じ番付のため
大関のままであった。

1929(昭和4)年  
九月場所(名古屋)3勝3敗5休 
1930(昭和5)年  
一月場所        3勝3敗5休 
一月場所の次の場所は一月場所と同じ番付のため
大関のままであった。東京場所と西日本場所の直前
2場所の合計で番付を編成するため合計されることは
ない。

次に能代潟の場合
1927(昭和2)年  
三月場所(大阪)4勝1敗6休 
五月場所    3勝8敗   
東京場所と西日本場所を別々に番付をつくるため
大関のままであった。
 
1929(昭和4)年
九月場所(名古屋)4勝7敗
1930(昭和5)年
一月場所     5勝6敗
東京場所と西日本場所の直前2場所の合計で番付を編成
するため上記のケースに連続性はなく大関のままである。
しかし、翌場所
三月場所(大阪) 4勝7敗 
と負け越し、東京と西日本場所をあわせて負け越した
結果ようやく?関脇に陥落した。
<写真は能代潟の絵葉書>
2能代潟絵葉書!

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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