大相撲

◆問題点を探る 大関陥落制度を考察する1

2014年3月17日

関脇の強い場所は面白いという。だが大関の強い
場所はもっと面白いのだ。しかし、一人の大関が
優勝を争った場所数は極めて少ない。詳しくは
2013年の12月28日及び12月29日の大関考 昭和・
平成の大関の成績を検証1、2をご覧いただきたい。
また、1場所平均の成績が9勝台以下の大関が
大多数である。

最近はあまり言われなくなったが、かつてはクン
ロク(9勝6敗)大関というだらしない大関を揶揄
した言葉があった。いまや、大関を何人倒しても
殊勲賞の対象にならないことからも大関の権威は
落ち込んでいる。琴桜、清国、前の山、大麒麟の
4大関時代、「星勘定、明日は大関だから白星」
という皮肉があった。

横綱が地位化する以前、大関は番付の最高位で
あった。だが、その面影は今はない。大関はなぜ
かくも弱い存在でなり下がったのか。原因は明確だ。
2場所連続負け越したら関脇に落ちるという大関陥落
制度にある。これなら2場所通算8勝22敗で大関を
維持できることになる。また、0勝から7勝、8勝
から11勝は同じ意味しか持たない。2場所連続負け
越しどころか、かつては3場所連続負け越しで陥落の
時代もあった。

そもそも大関陥落制度はどのような歴史をたどって
きたのか、この際歴史をさかのぼってみよう。今の
2場所連続負け越しで関脇に陥落という制度ができた
のは1969(昭和44)年七月場所からである。それ
以前は3場所連続負け越しで陥落だった。それが
甘いのではということで現在の制度になった。

ただし、1983(昭和58)年一月場所より大関にも
公傷制度が適用された。大関に限らず、ほぼ毎場所
休場者を出すため北の湖理事長が2003(平成15)年
十一月場所後に廃止した。その代わり、幕内と十両の
枚数を増やした。

さて再び歴史をさかのぼってみよう。3場所連続負け越し
たら大関を陥落する制度ができたのは、年6場所が実施
された1958(昭和33)年である。現代の相撲ファンから
みると甘すぎるほど甘いが、当時は史上初の年6場所
制という未知の世界に対し、過酷なスケジュールと
緊張に過剰反応したのだろうか、2場所では厳しい
というのが理由であった。それ以前は2場所連続負け
越しで大関陥落であった。
 
ただし、明治・大正時代はまったく別である。
詳しくは機会があったら触れてみたいので、そのとき
ご覧いただけたら幸いである。
<写真は5場所連続9勝6敗を含め大関在位中に
2ケタ勝利がなかった松登のブロマイド>
1ロマイド 松登

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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