いまの大関陥落制度は、1969年(昭和44年)七月場所から、2場所連続で負け越すと関脇に落ちる形である。その前の1958年(昭和33年)から1969年までは3場所連続の負け越しで陥落し、さらに前(1927年の東西合併から)は2場所連続だった。1983年(昭和58年)一月場所から2003年(平成15年)十一月場所後までは、大関にも公傷制度が適用されていた。
田口 通廣の連載「大関陥落制度を考察する」(全7回・2014年)の1回目による。いまの陥落と復帰の条件は大関の降格・陥落の条件|2場所連続負け越しと10勝復帰のルールにまとめている。
大関陥落制度の移り変わり|2場所→3場所→2場所連続負け越し
陥落の条件は一度ゆるめられ、また厳しく戻された。田口がたどった順に並べると次の表になる。
| いつから | 陥落の条件 | 田口の記事 |
|---|---|---|
| 明治・大正 | いまの決まりとはまったく別。大正時代は2場所連続負け越しの規定がなく、ケースバイケース | この記事・大正時代の大関陥落事情 |
| 1927年(昭和2年)の東西合併から | 2場所連続負け越しで陥落(1932年までは変則の番付編成で、落ちない例もあった) | 考察する2 |
| 1958年(昭和33年) | 3場所連続負け越しで陥落(年6場所制に合わせてゆるめた) | この記事 |
| 1969年(昭和44年)七月場所 | 2場所連続負け越しで陥落。関脇に落ちた直後の場所で10勝以上なら大関に復帰できる | この記事・大関陥落制度あれこれ |
| 1983年(昭和58年)一月場所〜2003年(平成15年)十一月場所後 | 大関にも公傷制度(けがの翌場所を全休しても負け越し扱いにしない) | この記事・考察する3 |
3場所連続にゆるめたのは、年6場所制が始まった1958年(昭和33年)である。田口は、現代の相撲ファンからみると甘すぎるほど甘いが、史上初の年6場所という未知の日程に対し、2場所では厳しいというのが理由だったと書く。過酷な日程と緊張に過剰に反応したのだろうか、とも見ている。
いまの2場所連続の形に戻したのは、1969年(昭和44年)七月場所である。3場所連続では甘いのではないか、という声からだった。田口の「大関陥落制度あれこれ」によれば、このとき力士会の提案で、関脇に落ちた直後の場所で10勝以上を挙げれば大関に戻れる規定もできた。
1983年(昭和58年)一月場所からは、大関にも公傷制度が適用された。大関に限らずほぼ毎場所休場者を出すため、北の湖理事長が2003年(平成15年)十一月場所後に廃止し、その代わりに幕内と十両の枚数を増やした。
田口の問題提起|2場所に1度勝ち越せば大関でいられる
田口は、大関が弱くなった原因は2場所連続負け越しで陥落する制度そのものにある、と書いている。この形なら2場所通算8勝22敗でも大関を維持できる。0勝から7勝、8勝から11勝は同じ意味しか持たない、とも言う。
関脇の強い場所は面白いというが、大関の強い場所はもっと面白い、というのが田口の見方である。ところが、一人の大関が優勝を争った場所数は極めて少なく、1場所平均の成績が9勝台以下の大関が大多数だという(詳しくは大関考 昭和・平成の大関の成績を検証1・検証2)。
かつてはクンロク(9勝6敗)大関という言葉で、だらしない大関が揶揄された。大関を何人倒しても殊勲賞の対象にならないことからも、大関の権威は落ち込んでいる、と田口は書く。琴桜・清国・前の山・大麒麟の4大関時代には、「星勘定、明日は大関だから白星」という皮肉があった。

横綱が地位になる前、大関は番付の最高位だった。田口は、その面影はいまはない、と書いている。
2019年、田口は大関陥落制度は見直すべきで、陥落の条件を「3場所連続1ケタ勝利」にする案を示している。あわせて、横綱の昇進を厳しくすれば大関が不在になる心配はない、と書いた。
陥落しても10勝で戻れる特例|1969年七月場所から
大関が負け越すと、次の場所は角番になる。角番は、勝ち越さなければ番付が下がる局面をいう(デジタル大辞泉)。角番でも負け越すと関脇に落ちるが、落ちた直後の場所で10勝以上を挙げれば大関に戻れる。
2017年の時点で、この規定で大関に戻ったのは三重ノ海(のちに横綱)、貴ノ浪、武双山、栃東(2回)だった(田口 大関陥落制度あれこれ)。2019年には栃ノ心が10勝を挙げて戻り、のべ6人目になった(田口 大関陥落制度は見直すべき)。
直近では安青錦が、令和8年三月場所に大関で7勝8敗、五月場所を全休して関脇に落ちた。七月場所は関脇で12勝3敗で優勝し、九月場所は大関に戻っている(日本相撲協会の力士プロフィール)。角番や復帰の例は大関の降格・陥落の条件にまとめている。
連載「大関陥落制度を考察する」全7回
- 1(この記事) 陥落制度の移り変わりと、田口の問題提起
- 2 昭和初期の変則の番付編成。2場所連続で負け越しても落ちなかった大関(大ノ里・能代潟・常陸岩)
- 3 現状緩やか派(大関昇進は3場所なので陥落も3場所連続に、など)
- 4 現状派(厳しくすると大関がいなくなる、など)
- 5 現状打破派1(角番3回で陥落、1場所負け越しで陥落、など)
- 6 現状打破派2(大関昇進を厳しく、8勝・9勝の大関は引退、など)
- 7 大関特別地位の廃止派(成績で給料を変える、大関交代制、など)
3回目から7回目は、陥落の決まりについて相撲通や相撲愛好家から出てきたさまざまな意見を、現状緩やか派・現状派・現状打破派と、大関を特別な地位としない考え方に分けて紹介したものである。明治・大正の陥落の実情は大正時代の大関陥落事情で取り上げている。
大関陥落制度についてよくある質問
Q. 大関陥落制度とは何ですか?
A. 大関が2場所続けて負け越すと、次の場所で関脇に落ちる決まりです。1969年(昭和44年)七月場所からこの形です。
Q. 大関陥落の条件は昔から同じですか?
A. いいえ。1958年(昭和33年)から1969年までは3場所連続の負け越しで陥落で、1969年七月場所に2場所連続に戻りました。1927年(昭和2年)の東西合併から1958年までは2場所連続でした(田口の記述)。
Q. 大関が負け越したらどうなりますか?
A. 次の場所が角番になり、そこでも負け越すと関脇に落ちます。関脇に落ちた直後の場所で10勝以上を挙げれば大関に戻れます。
Q. 大関の公傷制度はいつまでありましたか?
A. 大関には1983年(昭和58年)一月場所から適用され、2003年(平成15年)十一月場所後に廃止されました。
Q. 田口は大関陥落制度の何を問題にしていますか?
A. 2場所に1度勝ち越せば大関でいられるため、2場所通算8勝22敗でも大関を維持できる点です。これが大関を弱くしたと見ています。
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