大関琴ノ若が五月場所から琴櫻を名のることになり
そうである。琴ノ若の祖父であり、父琴ノ若の師匠
でもある。今のように部屋の力士全員に、頭に琴の
字をつけたのは、元琴櫻の佐渡ヶ嶽の代から始まっ
た。
琴櫻とはどういう力士であったのか。ぶちかまし相
撲の馬力型であった。柏戸は琴櫻のぶちかましに胸
をよく赤くしていた。そうかと思えば藤ノ川の動き
に翻弄された。また、曲者海乃山にも苦戦した。
関脇・小結時代は8場所連続関脇・小結に在位した。
琴櫻が大関に昇進して記録はストップした。このと
き琴櫻とともに大関を目指していたのが麒麟児(後
の大麒麟)である。琴櫻と同じ3場所32勝だったが、
大関昇進はならなかった。
琴櫻は大関で初優勝した。2回目の優勝もした。北
の富士・玉の海が横綱に昇進するなか、琴櫻の横綱
は考えられなかった。
玉の海が亡くなった後、昭和47年三月場所で事件は
おこった。大関前の山はこの場所角番で11日目まで
5勝6敗とピンチ。一方琴桜は7勝4敗と勝ち越し
が可能なところまできていた。相撲は、琴櫻が星を
譲った相撲にとらえられた。監察委員会が不自然と
とらえ、立ち合いが無気力と認定した。
監察委員のメンバーは委員長の花籠(元大ノ海)、
以下三保ヶ関(元増位山)、高島(元三根山)、大
山(元松登)、片男波(元玉乃海)、鏡山(柏戸)
である。前の山は休場し、大関を陥落した。琴櫻は
休場することなく出場し続けた。
琴櫻は誰しも大関で終わると思ったが、大関31場所
目、32場所目に連続優勝してしまった。当時は北の
富士の一人横綱だった。しかし、琴櫻は32歳で将来
性は考えられなかった。琴櫻が横綱になってもなら
なくても困る状態だった。
琴櫻は結局横綱に昇進した。短命だったが、桜の花
のごとく散った。