年間最多勝は相撲ファンが注目するタイトル
であるが、協会の制度ではないので、どこか
で忘れられてしまうところもある。特に低
レベルの年間最多勝が続くとどこか白けて
しまう。年間最多勝は年6場所とともに誕生
した節がある。しかし、1年という単位は
それ以前からあった。大正15年の優勝制度
誕生とともに、不戦勝・不戦敗制度、取り
直し制度が整備されてきた。そこで大正15年
以降の年間最多勝を調べてみることにした。
それが以下である。
大正末期から昭和の初めは横綱常ノ花が第一
人者であった。大正15年は全休があり、年間
最多勝は同部屋の常陸岩及び小野川(のちの
豊國)がついている。昭和2年は大阪相撲と
東西合併して2場所が東京、2場所が西日本
で開催されるようになった。昭和3年、横綱
常ノ花は1場所全休がありながら1場所優勝
、次点2回で横綱宮城山と並んで年間最多勝
をあげている。
昭和4年から玉錦が浮上してきた。小部屋の
悲哀か玉錦が大関に昇進したのは昭和5年
夏場所であった。常ノ花は昭和5年10月場所
に、宮城山は昭和6年春場所に引退している。
それとともに武蔵山が登場してくるように
なった。武蔵山というと横綱として休場ばか
りしているイメージだが、横綱以前は玉錦に
次ぐ実力者であった。
昭和7年1月、協会に改革を求める春秋園
事件がおこり、力士の大量離脱が相次いだ。
協会は場所の開催を延期したものの、満足に
取組を組めなくなった。窮余の一策として、
何人かの力士を十両から幕内にひきあげ、
系統別総当たり制に踏み切った。なお、年4
場所は昭和7年で終わっている。また協会に
残った玉錦は昭和8年に横綱に昇進した。
昭和最強の大関、または昭和唯一の名大関と
いわれた清水川が年間最多勝に顔をだすよう
になった。協会に復帰した男女ノ川も年間
最多勝になっている。昭和8年から年2場所に
なった。しかし、第一人者はあくまで玉錦で
あった。
(この項目続く)
大雨が心配です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。