昭和1ケタ生まれ及びそれ以前の元横綱の
親方定年模様をみていこう。横綱の代では
昭和36年(1961年)1月から65歳定年が施行
された。ところが昭和43年双葉山、翌年羽黒
山、約3年弱後前田山が50代でなくなられた。
無敵双葉山、戦後の混乱期を支えた羽黒山、
張り手旋風をおこした前田山という英雄が
あいついで亡くなられたのだからショックで
あった。双葉山は理事長であった。
<元双葉山の時津風>
それだけではなかった。その後照國、千代の
山、吉葉山が同様に50代で亡くなると、「元
横綱は短命ではないか」「横綱という重責が
彼らの寿命を短くしているのではないだろう
か」という声があがってきた。横綱の責任と
寿命の関係は定かではない。ただ、そういう
声があがっても不思議でない流れがあった。
鏡里は時津風部屋から独立し、立田川部屋を
おこした。ここでは最終年寄名ではピンと
こないので、表ではあえてこういう書き方を
させていただいた。定年制が施行されて、
65歳まで務めたのは、鏡里が最初であった。
部屋を大きくすることはできなかったが、
80歳まで生きた。男性の平均寿命を少し超え
たことになる。
栃錦は「横綱は追い詰められて辞めてはいけ
ない。桜の花が散る如く引退しなければ」が
持論だった。師匠元栃木山の教えでもあった。
稀勢の里と逆の生き方といえる。理事長とし
て無借金で新国技館を建設したのが最大の功績
であった。理事長を元初代若乃花に禅譲し、
相談役に就いた。あと約1ケ月で65歳という
直前、脳梗塞で亡くなられたのは惜しまれる。
続いて定年まで務めた元横綱が初代若乃花で
ある。若乃花は2代目若乃花、隆の里の2
横綱、貴ノ花、若嶋津の2大関をはじめ、
19人の関取を育てた名伯楽であった。協会
理事長を務めるなど、相撲界に残した功績は
とてつもなく大きかった。82歳は定年制施行
以降最も長生きであった。
(この項目続く)
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