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土俵の変遷

古代・中世に土俵はなかった。従ってすもう
といっても力比べや殺伐とした荒っぽい格闘
技であったと思われる。日本書紀にある野見
宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまの
けはや)の戦いは古代の話である。信長が
少女に相撲をとらせたというが、これはどう
も小説であるようだ。当然信長の時代も土俵
はない。
土俵の前提となったのは、人方屋と呼ばれる
戦う2人のまわりを力士が囲んだものである。
これが歴史的にいつ発生したものかは、はっ
きりしない。江戸時代にはいって投げ銭めあ
ての辻相撲が行われるようになる。セミプロ
といえるが、江戸初期土俵は存在しない。
土俵は勧進相撲のころ誕生したと言われて
いる。勧進相撲とは神社仏閣の建立修繕費の
資金を集める目的で寄進を勧めることである。
相撲絵では1673年から83年ごろ確認できる。
土俵の出現が相撲を大きく変えた。初期の
土俵は俵に土を詰めたものを地面に置いて
いただけであった。円形だけでなく、四角い
土俵も存在した。四角い土俵はコーナーに
詰まると逃げ切れなかった。
雲龍久吉■國明画
<二重土俵がわかる錦絵>

俵を土中にうめたのは享保(1716年~36年)
のころで、しだいに細俵になっていった。
土俵の直径は13尺であった。相撲の錦絵を
みると土俵が二重になっているものがある。
二重土俵は天明(1781年~89年)には既に
出現していた。内円に16俵、外円に20俵つか
われたため、土俵は36俵と呼ばれた。
昭和3年ラジオ放送の始まりとともに導入
されたのが、仕切り制限時間と仕切り線で
ある。それまでは仕切り線がなく、頭と頭を
つけ合ったまま立つこともあった。なお、
仕切り線の間隔は60センチであった。
昭和6年4月、天長節を祝し天覧相撲を開催
した。これを機会に二重土俵を一重にし、
土俵の直径が15尺に改められた。
180113初日前日 211
<土俵の儀式>

戦後の昭和20年11月、国技館の被災破損に
より晴天10日間興行がおこなわれた。この
とき16尺土俵になったが、力士会の反対で
1場所限りで15尺に戻る。
昭和45年五月場所から仕切り線の間隔が70
センチになって現在の土俵に至っている。 

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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