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横審誕生以前の横綱の昇進4

このテーマはすっかり間が開いてしまって誠
に恐縮だが、改めて再開したい。なお、以前
どのようなことが書かれていたか、思い出し
ていただくため、下記をクリックして参照
していただければ幸いである。

横審以前A
男女ノ川は、体格は堂々たるもので、期待は

大きかった。だが、勝つときは豪快無双の
相撲ぶりも、負けるときは下位にあっけなく
敗れるなど、安定しなかった。優勝は2回。
最初は春秋園事件で脱退した後、復帰した
場所で、もう1回はその2場所後の関脇の
ときである。男女ノ川は横綱直近の場所に
優勝はなく、横綱昇進後も優勝はない。双葉
山の躍進とともに存在感がすっかりうすれて
いった。
男女ノ川
<男女ノ川のブロマイド>
 
双葉山は大関で連続全勝優勝して文句なしに
横綱に昇進した。大関以前の関脇でも全勝
優勝している。つまり、双葉山は3場所連続
全勝優勝して、横綱に昇進したのである。
このような例は過去にも、現在までにもない。
このとき双葉山は69連勝の途上であった。
双葉山はけして奇襲や作戦的な相撲を取らず、
相手との力の差を肌で感じとっていた。玉錦
に6連敗していたが、1度勝ちだしたらもう
負けなかった。現在水は1度しかつけないが、
これは双葉山が始めたものだった。当時は
仕切り直しのたびに水をつけることが多かっ
た。双葉山は「土俵にあがったら、余分な
ことはすまい」と考えたという。
また、双葉山といえば、相手が立てばいつ
でも立つ立ち合いであった。これは下のころ
から心がけていた。このことを双葉山は「1
日に10分だけ集中すればいいのです」とこと
もなげに語っていた。10分というのは当時の
仕切り制限時間である。
双葉山
<双葉山のブロマイド>
 
双葉山に傾倒し、相撲を見る基準を双葉山に
おいた小坂秀二氏は次のように書いている。
土俵上の双葉山に、単なる力闘者ではない、
求道者の姿を見たのは、決して私ひとりでは
あるまい。双葉山の求めたものは、相手から
得られる勝利でもなく、まして観衆の賞賛
でもなかった。また、単なる相撲技の習熟、
完成というものでもなかった、言うなれば、
相撲を通じての自己完成への努力であろう。
(がちんこ相撲-だれが現代の双葉山か-
小坂秀二著 いんなとりっぷ社刊より)
羽黒山は双葉山の弟弟子である。双葉山の陰
に隠れて優勝できないことが多かった。

双葉の陰A

羽黒山が初優勝したのは双葉山が8回目の
優勝をした翌場所の昭和16年夏場所であった。
大関羽黒山はこの1回の優勝で横綱に昇進
した。2場所前が14勝1敗だから連続14勝
1敗で横綱を決めたわけである。
羽黒山政司
<羽黒山のブロマイド>
 
取り口は堅実で、双葉山の柔に対し、剛で
あった。羽黒山が花開いたのは双葉山の晩年
から戦後である。終戦の秋場所から4連覇
している。しかし、この時期は相撲どころ
ではなかったところに羽黒山の不運があった。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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