昭和29年の夏場所、秋場所で大関栃錦が14勝
1敗で連続優勝を達成した。栃錦の連続優勝
で、横綱昇進は決定的だった。そうなると、
東富士、千代の山、鏡里、吉葉山と史上初の
5横綱が誕生することになる。「5横綱はいけ
ない」と言っていた東富士は、秋場所の不成績
もあり、引退することにした。
ない」と言っていた東富士は、秋場所の不成績
もあり、引退することにした。
こうしてメンバーが代わるカタチで、千代の山、
鏡里、吉葉山、栃錦の4横綱時代が、続くこと
になった。しかも場所数は、4横綱史上最長の
14場所に及んだ。横綱量産がうんだ結果で
あった。強い大関は横綱になれた時代 で
あった。
鏡里、吉葉山、栃錦の4横綱時代が、続くこと
になった。しかも場所数は、4横綱史上最長の
14場所に及んだ。横綱量産がうんだ結果で
あった。強い大関は横綱になれた時代 で
あった。
皆勤は14場所中わずか1場所だけであった。
誰かが必ず休場していたことになる。その1
場所も、3横綱が1ケタ勝利というお粗末さ
であった。しかも4横綱がそろいながら、優
勝したのは半分の7場所であった。
成績は475勝216敗1分142休である。勝率6割
8分7厘。1場所10.3勝である。稀勢の里の
大関勝率以下である。休場率は不戦敗12を含
め、18.5%である。これは1年間に一人の横綱
が1場所と1.5日休場していることになる。数は
いても物足りなさを見せられていたことになる。
が1場所と1.5日休場していることになる。数は
いても物足りなさを見せられていたことになる。
4横綱が強かったことはなかった。この当時、
現代の最強力士は誰かというテーマが専門誌
の企画として掲載された。候補は4横綱と大
関若ノ花であった。最強力士が誰の目にも
明らかでなかったこそ成り立った企画であった。
明らかでなかったこそ成り立った企画であった。
ここに若ノ花が加わっていることが興味深い。
現代最強力士は栃錦という結論になった。
この4横綱時代は、昭和33年一月場所、場所
中に吉葉山が、場所後に鏡里が引退してよう
やく終止符をうった。
オリンピックはいよいよマラソン。
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よしなに
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