一代年寄は昭和44年五月場所、大鵬30回目の優勝の偉業
をたたえて、協会から贈られた。九月場所の初日、武蔵
川理事長(元出羽ノ花)以下協会幹部が土俵に上がり、
紋服姿の大鵬を表彰した。大変壮観であった。一代年寄
を贈られたことで、大鵬は将来大鵬部屋をおこし、ニ所
ノ関部屋から独立することが規定路線になっていた。そ
のため、現役のときから弟子を集め、内弟子にしていた。
一代年寄はその後、北の湖が2人目となった。北の湖は
「名誉なこと」として受け入れた。北の湖は部屋の出世
頭ではあったが、所属していた三保ヶ関(元増位山)部
屋は息子の増位山が継ぐことが決定的であった。そのた
め、北の湖の独立は必至であった。
3人目の一代年寄は千代の富士になる予定だった。だが、
九重部屋を継ぐため、辞退した。千代の富士が一代年寄
を受諾していれば、引退後一人助かったのに、とぼやく
声があったとか。3人目は貴乃花である。一代年寄は20
回以上の優勝が目安という見方がされていた。父の二子
山部屋の看板が貴乃花部屋に変わった。
本来なら朝青龍、白鵬も一代年寄の資格者であるが、日
本国籍でないため、年寄の資格さえない。ところで、年
寄が日本国籍を有する者という一文がいつできかという
と、昭和51年9月である。当時は外国籍の関取は高見山
しかいない。しかし、高見山を狙い打ちにしたものでは
ない。一言で言えば柔道の二の舞を避けたかったのだ。
今や国際化した柔道は、日本柔道とはかけ離れたJUDOに
なってしまった。ただ、年寄資格が今の規定のままでい
いのかは、議論の余地は必要ではないだろうか。
大鵬が定年になったとき一代年寄が1つ消えた。そして
十一月場所13日目終了後北の湖理事長が亡くなられたこ
とで一代年寄が消滅した。大鵬部屋は大嶽部屋(元貴闘
力→元大竜)に変わった。北の湖部屋は山響(元巌雄)
に引き継がれる。いまや一代年寄は貴乃花だけという寂
しい状況になってしまった。
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