48場所連続横綱出場と驚異的な数字を誇っていた白鵬が
九月場所初めて休場した。しかし、ここまで休場がなか
ったというのは超人的であった。どれくらい超人的か、
ほかの横綱と比較してみよう。横綱が実質地位化した常
陸山以降の横綱を調べてみた。まず、明治大正期の横綱
からみてみる。
この時期の横綱は現代と比較して制度上2つのものがな
い。まず取り直し制度である。勝負判定がどうしても白
黒つかないときは、預かりとなる。また勝負がつかない
ときは2番後取り直しということもない。当時は四つ相
撲で勝負がなかなかつかず、引き分けが多かった。
さらに、休場に関しては2点指摘しておかなくてはなら
ない。1つは明治42年6月国技館開設以前、千秋楽は幕
内は出場しなかった。そのため千秋楽は「や」であった。
もう1つは、対戦相手が休場すれば今なら不戦勝だが、
当時は自分も「や」扱いになった。この2点は自分のせ
いではない。そのため、ここでは数字としてカウントし
なかった。あくまで自分の都合による休場のみを取り上
げた。その結果、明治大正期の横綱の休場率は以下にな
った。
だが、意外と数字が高い。角聖常陸山44.98%、一突き
半の鉄砲太刀山35.71%である。常陸山の場合は渡航で
世界をまわり、本場所を休場したケースまである。3日
に1回休場すると33.3%の休場率になる。年2場所で、
こんなに休んでは観客は極端に見れなかった横綱が出て
も不思議ではない。
も不思議ではない。
大正時代の大横綱大錦によって初めて10%台の休場率に
なった。それ以前は20%台さえいなかった。さらに栃木
山によって1ケタの休場率がようやく実現した。ただ、
両力士とも晩年を迎えることなく引退したという面はあ
る。
この後、取り直し制度、不戦勝不戦敗制度ができてから
の横綱の休場率を見ていこう。
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よしなに
”土俵の目撃者”
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