これまで2回の検証で大関としての実績不足が証明
されたが、例外はないか。1932(昭和7)年5月場所
から1937(昭和12)年5月場所まで大関を務めた
清水川に着目してみる。玉錦時代、11日制(最終場所
のみ13日制)、系統別総当りのもとで戦った成績は
繰り返しになるが
優勝争い12場所中4場所、優勝2回、
大関勝率6割4分9厘で1場所平均7.139勝-3.861敗、
休場は0、負け越し3回。
「名大関は清水川一人である」と言ったのは杉山
桂四郎氏である。杉山(桂)氏は監察委員を八百長
Gメンとよんだり、燃える要素があると強い北の
富士を循環気質と表現した。
「昭和では最強の大関」と言ったのは三宅充氏
である。大相撲の問題点を斬りまくった方である。
鋭い評論でなる両者にそうまで言わせている。これに
平成の大関が加わっても変らないのは平成の大関の
成績が証明している。
近年、親方(元羽黒山=安念山)夫妻と衝突した
双羽黒、野球賭博の琴光喜、八百長で数多くの力士が
追放(形は強制引退)され、蒼国来以外は協会に復帰
できなかった。
ところが、清水川は復帰を果たしている数少ない
一人なのである。彼の成績をみると1927(昭和2)
年後半2場所を全休している。また、1928(昭和3)年
一月場所後の成績がない。派手な私生活の乱れから
本場所をさぼった結果、協会から破門処分を受けた
のである。
人を介して復帰をはかったがままならなかった。
その清水川がなぜ復帰できたのか。それはすさまじい
犠牲の上で実現したのである。父親が死をもって
復帰を嘆願するという前代未聞の事件がおきた。
この異例のできごとに協会がようやく復帰認めた
のである。清水川は昭和3年10月場所十両付け
出しで復帰した。名大関、昭和最強大関誕生の
裏にはこうした背景があったのである。