大相撲

横綱の代からみた国技館1 

大相撲の常設館ができたことは画期的なことであっ
た。天候に左右されないで興行ができることは日程
の安定にもつながる。それまでは晴天〇日興行であ
った。なかには天候が回復しないでそのまま中止に
なった場所がある。国技館を横綱の代からみるとど
うなるのか。

<旧両国国技館の絵葉書>

旧両国国技館が開設されたのは、明治42年夏場所で
あった。その時の横綱は常陸山と梅ヶ谷であった。
共に横綱12場所目であった。常陸山が馬車で場所入
りする写真を見たことがある。

太刀山は横綱時代をほとんど旧両国国技館でまっと
うした。旧両国国技館は火災で焼失した時期がある。
その時は4場所ほど九段靖国神社で開催している。
太刀山は横綱最後の場所は九段靖国神社だった。
もっとも最後は全休だった。

2代目西ノ海は太刀山引退の翌場所引退している。
九段靖国神社を2場所経験している。鳳・大錦は4
場所すべて経験している。栃木山は九段靖国神社で
新横綱の場所を迎えている。3場所ほど横綱で経験
している。

<栃木山のブロマイド>

復活した旧両国国技館で再び場所が開かれた。しか
し、関東大震災で再び使用不可になった。場所は名
古屋で開催された。横綱栃木山はこれにも関わって
いた。3代目西ノ海はこのとき全休だった。

明治・大正は横綱常陸山から横綱3代目西ノ海まで
旧両国国技館で相撲をとった。

(この項目続く)

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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