三賞は相撲人気回復策として発案された。優勝はど
うしても限られた力士しかできない。だから三賞は
力士にとって励みになった。
昭和22年秋場所からスタートした殊勲・敢闘・技能
の三賞は毎場所各一人であった。それが昭和32年十
一月場所、初めて技能賞が該当者なしになった。候
補者しては琴ヶ濱がいたが立ち合いに問題があり、
それが是正できていないということで該当者なしと
なった。三賞受賞者は2人になった始まりである。
三賞受賞者が4人になったことがある。昭和46年十
一月場所、玉の海亡きあとの場所におこった。黒姫
山、輪島、富士櫻、三重ノ海の4人の活躍が甲乙つ
けがたく、誰もはずせない状態になった。結局、殊
勲賞黒姫山、敢闘賞富士櫻・輪島、技能賞三重ノ海
となった。
昭和61年三月場所関脇保志(のちの北勝海)が初優
勝。このとき保志が殊勲と技能、次点の小結小錦が
敢闘と技能、下位で12勝をあげた水戸泉が敢闘とな
った。初めてのべ5人が受賞したときであった。
該当者なしが2つ出て受賞者一人となったのが昭和
63年三月場所であった。麒麟児の敢闘賞だけであっ
た。こうした一人受賞は他にも例がある。高安、照
ノ富士は2度経験している。
のべ6人受賞があった。平成4年一月場所のことで
ある。貴花田が平幕で初優勝したときである。貴花
田が殊勲・敢闘・技能と全部受賞。次点の小結曙が
殊勲・敢闘、若花田が技能賞とのべ6人の受賞であ
った。解説をしていた出羽海(元佐田の山)が「一
人にいくつもあげなくても」と苦言を呈していた。
最も驚くべきことは三賞すべてが該当者なしになっ
たことである。平成30年九月場所のことである。そ
して令和5年七月場所のべ7人の受賞である。敢闘
賞が5人であった。歴史は繰り返すか。繰り返され
るのはいい加減にしてもらいたいか。この2つは、
異例・異常な出来事だった。