大相撲

一人横綱の優勝率

十一月場所、照ノ富士は優勝したことで、
新横綱から連続優勝したことが話題となっ
た。だが、もう一つの側面がある。それは
一人横綱で優勝したことである。横綱一人
なのだから優勝して当然かもしれない。
それではこれまで一人横綱はどれくらい
優勝してきたのか。

ここでいう一人横綱は番付上の一人横綱で
ある。横綱が休場しての一人横綱ではない。
また、場所前に引退して番付に名前が残っ
た場合はカウントしなかった。横綱が実質
地位化したのは常陸山以降である。対象は
常陸山以降の東京横綱とした。ただし、
東西合併で大阪から加わった横綱宮城山は
合併後対象とした。

<宮城山のブロマイド>

大相撲史上最初の一人横綱はその宮城山で
ある。常ノ花の引退によるものである。
昭和5年10月場所のことである。といって
も宮城山は2場所務めて引退している。
この間優勝はない。宮城山の引退で横綱
不在時代が続いた。昭和8年春場所、玉錦
がようやく横綱になった。当然一人横綱で
ある。6場所続いて優勝は3回であった。
玉錦の一人横綱優勝率は50%であった。武蔵
山の横綱昇進で一人横綱は解消された。

<玉錦のブロマイド>

それからしばらくは一人横綱はなかった。
昭和44年七月場所柏戸が引退して、翌場所
から大鵬が一人横綱となった。北の冨士、
玉の海が横綱に昇進するまでの3場所であっ
たが、優勝はなかった。昭和46年九月場所後
玉の海が急死すると北の冨士が一人横綱に
なった。北の冨士の一人横綱は8場所に
及んだ。乱調の時期が続いたことも加わって、
優勝は2回だった。

<北の冨士>

北の冨士の弟子の千代の富士が3場所だけ
一人横綱を務めている。優勝は2回である。
さらに弟子の北勝海が1場所一人横綱だった。
引退間際であった。優勝はない。北勝海引退
後は横綱不在の時期であった。これを解消
したのが曙であった。曙の一人横綱は、貴乃
花が横綱になるまで11場所に及んだ。優勝は
4回であった。

モンゴル横綱の一人横綱は長い。武蔵丸引退
後、朝青龍の一人横綱は21場所になった。
これが一人横綱の最長記録となった。朝青龍
は、この間16回優勝している。白鵬が横綱に
なって解消した。平成22年一月場所後、朝青
龍が事件をおこし、引退を余儀なくされた。
こうして白鵬の一人横綱が始まった。日馬
富士が横綱に昇進するまで15場所一人横綱
だった。また、鶴竜引退後2場所一人横綱で
あった。計17場所のうち11回優勝している。
そして照ノ富士が1場所一人横綱を務め、
優勝している。

<朝青龍>

ここまで一人横綱の場所数は73場所となった。
優勝は39回。一人横綱の優勝率は現時点で53%
であった。今後照ノ富士が優勝回数を増やして
いけば、数字はあがっていくことになる。

年末、でかける日が増えています。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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