昭和39年から40年、大鵬が23歳から25歳の
ときである。優勝でいうと12回目から18回目
を成した時期である。昭和40年から時津風
(元双葉山)理事長の英断によって部屋別
総あたり制がスタートした。横綱栃ノ海対
大関佐田の山が4日目、大関佐田の山対大関
栃光が6日目に実現するなど異例の前半戦と
なった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/10/殊勲4A-e1634779056106.jpg)
昭和39年一月場所、12勝3敗の横綱柏戸を
倒した前名若三杉の大豪が殊勲賞に輝いた。
13勝2敗で場所後横綱に昇進した栃ノ海に
勝った明武谷は見送られた。明武谷はその後
七月場所、十一月場所、昭和40年一月場所、
十一月場所で殊勲賞に輝いている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/10/若三杉.jpg)
七月場所は勝った横綱・大関がやや弱く、
大豪でもよかったように思う。2度の十一月
場所は優勝大鵬に勝っての受賞だけに大変
価値があった。明武谷といえば大鵬・柏戸
あるいは柏戸・佐田の山との優勝巴戦に2度
出場している印象のほうが強いかもしれない。
明武谷の4度の殊勲賞は昭和39年・40年に
凝縮されている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/10/明武谷-e1634779091620.jpg)
昭和39年三月場所、開隆山が殊勲章を受賞
したが、内容はやや弱かった。開隆山は九月
場所も殊勲賞となったが、内容はさらに弱か
った。開隆山はこの3度目の殊勲賞が最後の
殊勲賞となった。
昭和39年五月場所は優勝者横綱栃ノ海に勝っ
た沢光が受賞した。しかし、横綱柏戸、大関
豊山・北葉山との対戦はなかった。当時、
横綱・大関は番付で同系統・同部屋を除いた
上から15番目までが対戦相手という傾向が
あった。なお、柏戸が12日から休場したこと
で大鵬とは急遽14日目に対戦している。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/10/玉乃島-e1634779138754.jpg)
殊勲者として浮上してきたのが玉乃島であっ
た。昭和40年三月場所初受賞した。ただ、
内容的には清國と差はなかった。五月場所は
優勝者佐田の山にただ一人勝っての受賞だっ
た。部屋別総あたり制になって大鵬と対戦
したが、最初はけっこう勝っていた。昭和
40年の対戦成績は以下である。
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玉乃島の活躍は続く。
昨日はパソコンが謎の不調でした。
興味深いテーマをこれからもお届けします。