大相撲

高砂の系統9

4代高砂(元前田山)の下で以下が分家して
いる。

まず、昭和30年3月、元前頭2枚目朝響の
佐ノ山が分家独立した。朝響は大正11年春
場所入幕し、昭和4年9月場所に引退した
力士である。引退から実に約25年半経って
の部屋持ちである。58歳のときのことである。
しかしそれから約5年弱の昭和35年2月、
佐ノ山は死去し、弟子は4代高砂に引き取ら
れた。

<朝響のブロマイド>

昭和36年五月場所、元小結國登は引退して、
佐ノ山部屋を再興した。先代の朝響の弟子で
十両に昇進した栗家山を連れての独立であっ
た。栗家山は幕内の前頭5枚目まで出世した
が、幕内はわずか3場所だった。やがて番付
を落とし、最後は幕下で昭和39年一月場所に
引退(廃業)した。佐ノ山部屋は3月に閉鎖
し、親方は高砂部屋に戻った。

<國登のブロマイド>

昭和37年9月、元横綱朝潮が振分部屋を創設
した。しかし、昭和39年3月に部屋を閉鎖
した。わずか約1年半の独立だった。振分は
高砂部屋に戻った。どうも高砂部屋の分家は
長続きしない伝統が続いている。

昭和46年8月17日、4代高砂(元前田山)が
死去した。57歳だった。双葉山が昭和43年
12月に56歳で、羽黒山が昭和44年10月に56歳
直前で亡くなられただけに、横綱は短命か、
とささやかれた。

<4代朝潮のブロマイド>

5代高砂を引き継いだのは、元横綱朝潮で
あった。5代高砂は先代の弟子富士櫻を関脇
に育てた。さらに大関5代朝潮、大関小錦、
関脇水戸泉、南海龍らを育てた。もっとも、
南海龍は昭和63年九月場所、二日酔いで14日
目、千秋楽を欠場した。5代高砂は「酒と
相撲どっちを取るんだ」と迫った。南海龍は
酒を取って相撲をやめることになった。

5代高砂の下では3つの分家独立があった。
最初の分家独立となったのは、元大関前の山
の高田川部屋であった。この高田川がのちに
波乱を引き起こすことになった。

(この項目続く)

早起きしました。
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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