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高砂の系統8

昭和17年1月、前田山が4代高砂となった
とき、まだ大関だった。昭和22年秋場所横綱
に昇進したが、成績は不振だった。昭和24年
秋場所、初日勝っただけで、5連敗して途中
休場した。休場した前田山は大阪から帰京
した。

<前田山のブロマイド>

ところが両国から病院へ行く途中、車の中で
ファンからサンフランシスコ・シールズ対
巨人の日米野球のチケットを渡された。後楽
園球場で客席にいたが、横綱がいるという
ことで、試合前に撮影に引っ張りだされた。
そこで、オルドー監督と握手することに
なった。

ところが、これが新聞に掲載され、休場中の
横綱が野球観戦とは何事だ。という批難が
おきた。協会は前田山を大阪に呼び戻し、
事情を聴いた。前田山は途中出場することを
申し入れたが、これを協会は拒否し、出場
停止とした。前田山は追い詰められ、ついに
千秋楽引退せざるを得ない立場になった。
こうして前田山は引退した。世にいうシー
ルズ事件である。

引退した前田山は4代高砂として数多くの
弟子を育てた。横綱朝潮、関脇若前田、前ノ
山政三、高錦、愛宕山、前ヶ潮、小結富士錦、
関脇前田川、朝ノ海、東錦、朝岡、 大関前の
山太郎、小結高見山(のち関脇)、朝嵐など
がいる。特に外国人を本格的に入門させた
パイオニアであった。ハワイ出身の高見山を
入門させたいきさつはこうだ。

<高見山の記事>

高見山ことジェシー青年は高校でフットボー
ルをしていた。ハワイは日系人が多く、相撲
がさかんであった。7月4日の独立記念日
前後は各地で相撲大会が開催される。アマ
チュア相撲連盟の一行がジェシー青年に稽古
をつけたとき、その当たり、パワーに驚か
された。アマチュア相撲連盟の一人は大相撲
のハワイ、ロサンゼルス公演に同行していた。
ジェシー青年の入門話を高砂(元前田山)
団長にもちかけ、こうして高砂部屋入門が
決定した。

高見山の言葉も習慣も食事も気候も違う力士
生活が始まった。これだけでも大変である。
最も過酷だったのは稽古である。四股・テッ
ポウは毎日500回ずつやらされた。特に股わ
りは悲鳴をあげた。「目から汗が出た」と
いう名言はこのときのものである。

<高見山>

高見山の家は父が亡くなり、母と兄弟5人で
あった。長男高見山に生活がかかっていた。
成功の陰にはそんな一面があった。同時に
外国出身力士への入門の扉を開いたのであっ
た。

(この項目続く)

三月場所のチケット払い戻しを一括で送った
先からようやく振替払出証書が届きました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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