大相撲

一人大関の時代3

昭和40年代の一人大関は1例のみである。
昭和41年七月場所、豊山一人になった。先場
所大関北葉山が引退したためにおきた。その
豊山は好成績をあげられなくなってきていた。
そんな事情からか、北の富士が8勝-10勝-
10勝で翌場所大関に昇進した。かなり甘い
成績であった。さらにその翌場所、玉乃島が
10勝-9勝-11勝で大関に昇進した。こちら
も星は足りなかった。北の富士、玉乃島は
後に横綱に昇進するが、北の富士は大関在位
21場所、玉乃島は20場所とともに長かった。

<豊山>

昭和50年一月場所、大関は貴ノ花一人になっ
た。先場所大麒麟が引退したために生じた。
貴ノ花の後に大受が大関に昇進したが、陥落
していた。翌場所魁傑が大関に昇進したが、
7勝-12勝優勝-11勝で3場所前は負け越し
ていた。成績も3場所30勝であった。

<貴ノ花>

貴ノ花の一人大関はこれだけで終わらなかっ
た。2度目は昭和54年11月場所、昭和55年
一月場所と2場所経験することになった。
大関旭國が引退したために生じた。増位山が
大関 に昇進して解消した。だが、増位山は
8勝-11勝-12勝の成績だった。大関に昇進
しても不成績で短命に終わった。

大関増位山の引退によって、千代の富士が
一人大関になった。昭和56年五月場所、七月
場所のことであった。ところがその千代の
富士が横綱に昇進してしまった。そのため、
昭和56年九月場所は大関空位となってしまっ
た。

<千代の富士>

琴風が大関に昇進して空位はなくなったが、
一人大関であった。昭和56年十一月場所の
ことである。琴風は9勝-10勝-12勝優勝で
3場所31勝による昇進であった。琴風の一人
大関は翌場所の昭和57年一月場所も続いた。
隆の里が大関に昇進して東西に大関がそろう
ようになった。隆の里は10勝-11勝-12勝で
大関を射止めた。

<琴風>

一人大関は豊山1場所、貴ノ花通算3場所、
千代の富士・琴風2場所であった。大関空位
が1場所あった。昭和60年代、平成は、一人
大関は出現していない。今度の三月場所、
貴景勝の一人大関は昭和57年一月場所以来
約38年経っておきる珍事になるわけである。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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