大相撲

関脇優勝その翌場所1

2018年7月28日

七月場所関脇御嶽海の優勝の余韻を残す場所
後である。いつの時代も初優勝はどこか感動
的である。御嶽海は関脇で優勝しながら、
大関は来場所かけることになる。三月場所
7勝8敗、五月場所9勝6敗では無理からぬ
ことであった。
180722千秋楽表彰 480
<NHK金杯を受ける御嶽海>

関脇優勝は26例25人いる。実は26例中18例が
関脇優勝直後大関に昇進している。かなり
高い確率である。御嶽海のケースは少数派
といえる。それではこれまでどのようなケー
スで大関に昇進し、あるはチャンスをもち
越したのかみていこう。
関脇優勝1A
東西合併後、昭和2年から東京-西日本-
東京-西日本と年4場所が開催されるように
なった。当初、東京場所は東京場所で、西日
本場所は西日本場所で番付をつくっていたが、
同じ力士が東京場所と西日本場所であまりに
地位が違いすぎるケースが出てきた。その
ため、昭和3年夏場所より、東京場所と西日
本場所の合計の成績で番付を出すようになっ
た。年4場所でも番付は2回発表になった
のである。そのため、関脇優勝した玉錦と
清水川は現代とはかなり異なる事情となった。
清水川
<清水川のブロマイド>

玉錦も清水川も東京場所で関脇優勝している。
番付は東京場所と西日本場所の2場所で決ま
るから、東京場所の関脇優勝だけでは変化は
ない。清水川は翌場所の3月場所で8勝2敗、
合計16勝2敗で大関に昇進した。
玉錦
<玉錦のブロマイド>

しかし、玉錦は翌場所の3月場所、9勝2敗、
合計19勝3敗をあげながら大関昇進はなかっ
た。結局、玉錦が大関に昇進したのは、関脇
優勝後から6場所後であった。大関2場所目
から3連覇しながら、横綱に昇進できない
などの扱いは、玉錦の素行と小部屋の悲哀に
よるものだといわれている。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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