春巡業が始まって、巡業の様子が伝えられて
いる。負傷した稀勢の里は休場している。
負傷に関して新たな情報がはいると、短期間
に直ると考えるのは、楽観的すぎると思えて
くる。また、無理に出場しても、百戦錬磨
及び若手力士は今度間違いなく稀勢の里の
弱点をついてくる。稀勢の里は十分に直して、
戦える体をつくってから土俵復帰を果たして
いただきたいものだが、いかがだろうか。
今巡業というと大合併で行われるのが当たり
前になっている。これで十分な稽古ができる
のかというと大いに疑問である。今の巡業は
稽古後、出し物や取組まである。巡業で取組
を見たい方はどれほどいるのだろうか。こん
な話を元力士に聞いたことがある。「巡業の
取組でケガして本場所を休むようなことが
あると、本末転倒になります」。つまり、
巡業の取組はケガをしない程度にやるもの
なのである。
古くは、巡業は一門中心で行われていた。
一門の中には当然ながら、看板力士がいない
こともあった。とにかく稽古をやらなければ、
間がもたない状態だった。昭和27年大ノ海は
自らスカウトした若ノ花らを連れて二所ノ関
(元佐賀ノ花)部屋から芝田山(後花籠)
部屋を独立させた。この当時若ノ花はすでに
小結を経験していた。
巡業も当時はいまのような大合併でなく、
花籠部屋などは単独で、いわゆる小相撲と
呼ばれる一部屋だけの巡業をやるしかなかっ
たのである。(中略)
この部屋の巡業を見にくるお客さんのお目当
ては、若乃花一人である。だから、若乃花は
土俵からおりるわけにいかない。入れ替わり
立ち替わり向かってくる若い連中を相手に、
若乃花はけいこをつけてやる。(中略)若乃
花のけいこは百番をくだることはない。最近
の横綱、大関が二十番もけいこすると記事に
なるなどというのとはケタが違う。(栃若
時代 小坂秀二著 光人社刊より)
昭和34年の専門誌でも数百人の力士が数週間
歩いたって稽古はできっこない。稽古ができ
ない巡業形態をとっている。巡業で稽古が
できないのだから、相撲が面白いわけがない。
稽古もしないで満足な相撲が取れるはずが
ない。という趣旨のことが書かれている。
大合併でやるのならけいこが十二分にやれる
方法を打ち出す必要がある。北玉が横綱の
ころ、夏巡業を2班に分けたことがあった。
こうした工夫も必要である。
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