大相撲

九重部屋、それは時代に翻弄された部屋

2016年8月3日

主を失った九重部屋は寂しい。後継者は元千
代大海だが、どういう形で引き継ぐのか。名
跡と弟子だけの場合がある。部屋ごと継ぐ場
合もあるが、部屋は賃貸の場合がある。

千代の富士が、横綱として活躍していた頃の
師匠は、今NHKで解説をしている北の富士
であった。その頃のイメージが強く残ってい
るが、入門は違った。千代の富士の入門は、
昭和45年元千代の山の九重部屋である。千代
の山の故郷北海道松前郡福島町から、九重が
「飛行機に乗せてやるから東京へ行ってみな
いか」と秋元少年を誘い、部屋へ連れてきた
のである。
北A
<北の富士>
 
九重(元千代の山)が部屋をもっていなかっ
たら、千代の山の同郷でなかったなら、千代
の富士は違った道を歩んでいたかもしれない。
というのも九重部屋はすんなり誕生したわけ
ではなかった。そこには、苦渋の決断と波乱
に満ちたものであった。

千代の山は出羽海部屋の出身である。今の相
撲ファンはピンと来ないかもしれないが、出
羽海部屋は分家独立を許さずという不文律が、
長い間あった。誰も覆すことのできない鉄の
掟が支配していた。
武蔵
<武蔵川(元出羽ノ花)>
 
出羽海の後継者争いは、元常ノ花の出羽海が
亡くなった後におきた。元常ノ花の意志は千代
の山だが、遺書があるわけではなかった。候
補は元出羽ノ花の武蔵川と元千代の山の九重
であった。結果は年長である武蔵川の支持が
多く、決定した。九重は次という思いがあっ
たが、それを打ち砕く事態が発生した。横綱
佐田の山が元出羽ノ花の市川家に婿入りし、
部屋の名義が佐田の山にかわっていたのだ。
千 代
<千代の山のブロマイド>
 
ことここにいたって九重は北の富士らを連れ
て、独立せざるを得なかった。分家独立を許
さずという不文律があったため、破門という
時代錯誤な処置となった。

元前田山の高砂が一門に加えた。その理由を
昔出羽海と高砂はつながっていた。といって
いたが、そんな事実はなかった。当時は本当
に信じていた。余談だが、井筒部屋は高砂部
屋の分家であった。このことはいずれ機会を
みて、執筆する予定である。
140126千秋楽十両幕下 965
<協会挨拶をする九重(元千代の富士)>
 
千代の富士が出羽海をルーツにしていたら、
理事になり続け、理事長の可能性があったか
もしれない。だが、千代の富士のルーツは九
重部屋であり、それは歴史に翻弄された運命
があった。その九重部屋も千代の山から数え
て4代目を迎えようとしている。

連絡の途絶えた友人あり。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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