戦後の変化は優勝決定戦の制度の誕生、系統
別総当たり制復活、15日制の定着、年6場所制
スタートがあげられる。
スタートがあげられる。
これまで最高成績が同じ場合、番付上位が優
勝者であった。戦後の混乱期、なんとか相撲
人気の向上を図ろうと協会と記者クラブが協
力して考えたのが、優勝決定戦制度である。
同成績なら番外として対戦するのだから力士、
ファンに歓迎された。昭和22年夏(6月)場所
から施行され、数々のドラマを生んだ。
から施行され、数々のドラマを生んだ。
また、翌場所系統別総当り制に戻った。昭和
24年夏(5月)場所から15日制が定着した。
羽黒山・照國は優勝決定戦、15日制定着まで
相撲を取っていた。年6場所制は昭和33年に
スタートした。
黄:勝率8割1分5厘以上 12勝以上率5割以上 休場率13%以下
紫:勝率7割1分未満 12勝以上率3割3分3厘未満 休場李35%以上
ていただきたい、現役は発表時点での数字で
ある。
群雄割拠といえば聞こえはいいが、どんぐり
の背比べという見方もできる。東富士から吉
葉山まで勝率6割台、12勝以上率3割以下で
ある。東富士・千代の山1場所平均10.5勝、
鏡里1場所10.4勝、吉葉山1場所9.3勝という
低さである。横綱の責任勝ち星12勝以上も少
ない。3場所に1回で33%であるが、それ以
下である。東富士は成績にむらがありすぎる。
吉葉山は成績不振で終始した。
栃錦、若乃花は拮抗した好敵手として栃若時
代を築いた横綱であった。勝率は8割までい
かなかった。栃錦は1ケタ勝利で苦しんだ時
期があり、若乃花は、部屋創設の関係から、
晩年が長かった。しかし、12勝以上の責任勝
利をともに場所の半分以上をあげた。
6場所時代の申し子大鵬は、入幕した年から
引退する年まで優勝のなかった年はなかった。
横綱で初めて50場所を超える58場所の在位の
なかで、数々の実績を残した。勝率8割5分8
厘、12勝以上38回、12勝以上率6割5分5厘
は抜群の数字で、大鵬時代を築いた。
厘、12勝以上38回、12勝以上率6割5分5厘
は抜群の数字で、大鵬時代を築いた。
大鵬の好敵手柏戸は安定性に欠けた。横綱47
場所在位ながら12勝以上は少なく14回だった。
ただ前褌を取って走る相撲は数字でははかれ
ない魅力だった。
朝潮は甘い昇進だった上、横綱になって休場
が多くなった。休場率は35%である。年6場
所中2場所は全休していることになる。強い
朝潮と弱い朝潮が同居しているといわれたが、
横綱時代は後者だった。栃ノ海はワンチャン
スで横綱に昇進した、しかし、誰とやっても
勝てる気がしなく、28歳の若さで引退すること
になった。
になった。
相撲仲間で携帯電話がない方がいる。
ついに場所前連絡が取れなかった 。
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よしなに
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