大相撲

学生出身唯一の横綱輪島の源

2016年2月22日

現代の大相撲は、大学相撲出身が花盛りである。しかし、
横綱を狙える逸材はいるか、と聞かれると躊躇する。今
のところ、学生出身で横綱になったのは輪島ただ1人で
ある。2年連続学生横綱を取った輪島が、横綱に昇進し
たのは昭和48年五月場所後である。それから約43年、
いまだ学生出身の横綱が誕生する気配はない。輪島だ
けがなぜ横綱に昇進できたのか。そこには、他の学生
相撲出身と何が違うのか探ってみる。
輪島
<輪島>

輪島は早くからホープとして、期待されていた。蔵前の
星と呼ばれていた。特に昭和45年、幕下付け出しで連続
優勝して十両入りした。無敗で十両入りした力士は、これ
までいなかった。この当時ホープと呼ばれていた力士に
貴ノ花がいた。貴ノ花は初代若乃花の弟で「水泳では飯
が食えない」といって相撲界に飛び込んだ。また、押し
の一手の大受が楽しみな力士であった。実はこの当時、
輪島は必ずしも大成するという見方ばかりではなかった。
胸が薄く、相撲は小さかったからである。相撲に大きさを
感じさせるのは、胸をあわせ、上手からの技である。双葉
山・玉の海がこのタイプである。

出世は、入門が早かった貴ノ花が先行した。輪島が入門
したときは、すでに幕内であった。しかし、輪島は猛追
する。昭和46年には入幕を果たす。昭和47年には小結。
このとき貴ノ花は関脇だから、最接近したことになる。
大関はその年の九月場所後、両力士が同日昇進を果たし
た。このときは輪島、貴ノ花の力量は、まったく五分と
いう見方がされていた。このころ輪島は体に厚みができ
てきた。
輪 島
<輪島横綱昇進の記事>
 
大関昇進後は輪島と貴ノ花は明暗を分けた。1ケタ勝利
が多くなった貴ノ花に対して、輪島は地力をつけ、明ら
かに横綱を狙える器になってきていた。相撲ぶりは左下
手を取りにいく小さい相撲ぶりは変わらないが、そのま
まで強くなってきていた。さらに、勝ちにもっていく過程が
うまかった。勝負にそつがなかった。その中で、左前褌、
右おっつけという型を完成させた。これが輪島を横綱に
昇進させた原動力である。右からのおっつけが強烈で、
そのために左下手投げをくう。上昇北の湖が本割と優勝
決定戦でこの技をくって、優勝を逃したことがある。

輪島と同じ石川で、少年のときから相撲を取ってきた遠
藤。彼はいまだ横綱・大関とフル対戦して勝ち越してい
ない。御嶽海は一月場所10枚目で負け越した。もしかす
ると、学生出身の横綱は、輪島だけになるかもしれない。

月も下旬になり、改めていいテーマを書いていきます。

マーク2カ所をクリックして応援してください。
よしなに
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村 

相撲 ブログランキングへ 
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑ 

 

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

【ブログランキング】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック


【日本ブログ村】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村
  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

-大相撲

Copyright© 土俵の目撃者(毎日更新) , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.