これまでの優勝はすべて東西制によるものだが、相撲史
上の大事件が歴史をぬり変えた。昭和7年1月におきた
春秋園事件である。出羽海部屋の力士を中心に幕内力士
42人中29人が脱退、十両は22人中19人が脱退するという、
協会の屋台骨を揺るがす大事件に発展した。そのため番付
を編成し直し、1月興行を2月に変更した。このとき人数の
少なさから系統別総当り制を導入した。系統別総当たり制で
初優勝した力士が表3である。
を編成し直し、1月興行を2月に変更した。このとき人数の
少なさから系統別総当り制を導入した。系統別総当たり制で
初優勝した力士が表3である。
葉山が登場する。双葉山は69連勝中であった。
系統別総当り制は8年間続いたが、出羽海系の力士が幕
内の半数近くを占めたため、昭和15年、東西制に戻って
しまった。東西制に戻って初優勝した力士が表4である。
双葉山対照國は東西が別になる昭和18年まで待たなけれ
ばならなかった。
た。戦後の混乱期、なんとか相撲人気の回復を図ろうと
協会と記者クラブが協力して考えたのが、優勝決定戦制
度である。同成績なら番外として対戦するのだから、力士、
ファンに歓迎された。昭和22年夏場所(6月)から施行され
た。また、翌場所系統別総当りに戻った。そうした制度で
優勝した力士が表5である。
ファンに歓迎された。昭和22年夏場所(6月)から施行され
た。また、翌場所系統別総当りに戻った。そうした制度で
優勝した力士が表5である。
は見送られた。3敗しての優勝と横綱格下げ論がでてい
て昇進にはいたらなかった。横綱審議会は誕生前であっ
た。照國は横綱18場所目にして初優勝すると、翌場所も
優勝した。しかし、優勝はこの2回のみであった。後の大
横綱大鵬は、優勝の翌場所10勝5敗と平凡な成績に終
横綱大鵬は、優勝の翌場所10勝5敗と平凡な成績に終
わっている。初優勝で十両力士に負けた佐田の山は、翌
場所初の上位にも関らず、11勝4敗で殊勲賞を受賞して