出羽海から破門された九重は高砂一門に入った。高砂(元
前田山)は九重を迎え入れた理由の趣旨をこう語った。
昔、出羽海は高砂から分かれたんだ、と。筆者はこれを
聞いたとき、そうだったのかと納得していた。しかし、
これまで出羽海の系統で述べてきた通り、そんな事実は
ない。これは常陸山虎吉が稽古場がなくて高砂部屋の
稽古場を常時使用していたのが、そうとられたのでは
ないかと考えている。
独立した九重部屋が初めて迎えた本場所は1967(昭和42)
年の三月場所であった。当時の番付は横綱が大鵬、佐田
の山、柏戸、大関が北の富士、玉乃島、豊山である。
一月場所まで大鵬が第2次6連覇中で、しかも30連勝中
であった。大鵬の7連覇は堅いとみられていた。
この場所北の富士は目つきと気合が違った。初日から
突っ走って12連勝。一方6連覇中の大鵬は自己新記録の
35連勝を意識して体が動かず、通常ならまったく負ける
要素のない浅瀬川に序盤で敗れる波乱があった。敵は
浅瀬川ではなく大鵬自身である、と言われた。北の富士は
大鵬戦で1敗こそしたが、かつての兄弟子佐田の山を
倒し、千秋楽を迎えた。大鵬は14日目柏戸に敗れ2敗に
後退した。千秋楽北の富士は柏戸に勝ち初優勝を達成
した。後に燃える要素があるときは強いといわれる
北の富士はここから始まった。、
<北の富士初優勝を伝える大相撲誌 読売新聞社刊>
十両では松前山が優勝し、九重部屋はダブル優勝を
成し遂げた。涙をこらえられなかった九重と北の富士が
がっちり握手した光景は強烈な印象を与えた。相撲は
ドラマだ。土俵は人生の縮図。そんな劇的な展開が
新生九重部屋に訪れた。筆者にとって後にも先にも
これが最も感動的な場所となった。
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