元常ノ花の出羽海が1960(昭和35)年十一月場所の千秋楽
の翌日、二日市温泉の旅館で胃潰瘍のため急死した。
前日の千秋楽は元気に酒を飲んでいて、まったく予兆は
なかった。出羽海の後継者を決めなければならなくなった。
以前元常ノ花の出羽海が自殺をはかったときは遺書があって
1通は千代の山にあてたものだった。それには出羽海の
後継者を千代の山とすると書いてあったという者がいたが、
今となっては確認のしようがなかった。
候補者は2人いた。元出羽ノ花の武蔵川と元千代の山の
九重である。武蔵川は現役は最高位前頭筆頭ながら、
年寄としては簿記学校に通い、協会の運営、経営に手腕を
発揮してきた実績があり、切れ者であった。当時51歳で
あった。九重は現役時代横綱であり、出羽海の看板と
して部屋を大いに盛り立ててきた。部屋では唯一の横綱
経験者であった。当時34歳であった。
巡業の日程を終えて帰京後、後継者が決める動きがあった。
12月18日まず、平年寄12人が話し合いの場をもち、続いて
12月20日全年寄21人、全関取8人が集まって会議となった。
その結果後継者は武蔵川に決まった。このとき、分家の
春日野(元栃錦)は会議に呼ばれることはなかった。
出羽海のことは出羽海で決めるということだが、春日野の
意見が会議のゆくえに影響を与えるのを嫌ったなど憶測を
呼んだ。
武蔵川が出羽海に、これは実力差というべきか。九重では
先輩年寄が多いためまとめ切れないという意見が出た。
新聞も武蔵川有利の予想を立てていた。協会の仕事は
武蔵川、弟子のスカウト・育成は九重という意見もあった
という。当時の出羽海部屋は斜陽の名門といわれ、幕内
には出羽錦、大晃、福田山、常錦で横綱・大関はいな
かった。
また、会議の場で九重は武蔵川が出羽海後継者なることに
最後まで賛成しなかったという。元常ノ花にかわいがられ、
横綱にまでなった。名門を継ぐのにふさわしいのは自分
だという思いが早くから根付いていたと思われる。武蔵川
の次は九重という収拾案まで出された。しかし、次の
出羽海まで決めるのはおかしい。といことでこれは取り
下げられた。
武蔵川と九重の争いはこれだけでは済まなかった。