大相撲

知られざる名古屋本場所

2014年7月11日

7月も11日を過ぎ、大相撲の本場所名古屋開催が間近に
迫ってきた。暑いさなかになぜ名古屋でと思う方がいる
かもしれないが、実は最初から7月だったわけではない。

1927(昭和2)年大阪と東京の大相撲が合併した。それに
ともなって名古屋より西でも本場所が年2回開かれる
ことになった。これは1927(昭和2)年から1932(昭和
7)年まで続いた。この6年間の地方開催地が以下である。

1827(昭和2)年
三月 大阪
十月 京都
1028(昭和3)年
三月 名古屋 14日から晴天11日間 大池町仮説国技館にて
十月 広島
1929(昭和4)年
三月 大阪
九月 名古屋 20日より晴天11日間 大池町仮説国技館にて
1930(昭和5)年
三月 大阪
十月 福岡
1931(昭和6)年
三月 京都
十月 大阪
1932(昭和7)年
三月 名古屋 18日より晴天10日間 西区外堀町騎兵第三
                   駐隊跡広場にて
十月 京都

晴天興行ではあるが、3度本場所が開催されている。
優勝は順に大関能代潟、横綱常ノ花、小結沖ッ海である。

戦後の混乱期を経て徐々に場所数が年3場所、4場所、
5場所と増加していく中、1958(昭和33)年名古屋で
本場所開催が決定した。これにより現在の年6場所体制が
確立した。

名古屋の本場所は金山体育館を1964(昭和39)年まで7度
使用した。館内、あまりの暑さに南洋場所と言われた。
酸素の放出や氷柱を立てたりして少しでも観戦しやすい
ように試みた。なお、蔵前国技館とて夏は暖房、冬は冷房
と言われていた。

1965(昭和40)年以降は現在の愛知県体育館が会場となって
いる。愛知県体育館は東西が短く、正面-向正面が長い。
自由席は約240、ただし千秋楽は音楽隊がはいるのでさらに
減る。支度部屋は一箇所を板で区切って東西に分けて
いる。出入り口は1つで西にある。東方力士は西から
出てきて東に移動している。
1107古屋風景 033
<愛知県体育館>
 
七月場所は他の場所にない特徴がある。それは中日新聞社
と共催で興行していることである。そのため、場所のポスター
にCoca Colaの広告が入っている傾向がある。また、平日
の来客先着3000名に携帯ストラップ、ハンドタオルなどを
配布してきたサービスの歴史がある。(今年はそういう形に
しないとの情報があるが…)さらに、気がつきにくいかも
しれないが、体育館入り口には○日目と書かれたカーペット
が敷かれている。

なお、愛知県体育館周辺および利用駅の地下鉄市役所駅
近辺に売店はないので、あらかじめ用意しとくか館内の
売店を利用するしかない。夏なので観戦中は水分補給が
かかせない。

初日を前にして季節はずれの台風は幸い過ぎ去った。七月
場所はどういう展開となるか。土俵から目が離せない。
110724名古屋千秋楽表彰 327派褄富士
<愛知県体育館正面をバックにファンに応える優勝の
日馬富士 旗手宝富士 2011年>

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denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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