大相撲

42年前の事実上の無気力相撲

2014年4月23日

無気力相撲というと気力のない相撲、敢闘精神のない
相撲を意味すると考えるのが通常である。しかし、八百長
が発覚した2011年、協会が八百長といわず、故意による
無気力相撲と表現していたこともあった。

現在も続いている制度に監察委員がある。杉山桂四郎氏
は八百長Gメンと表現していたが、その誕生は43年前に
さかのぼる。

監察委員…八百長相撲、工作相撲、無気力相撲などの
言葉で、無気力な相撲を指弾する世論にこたえて相撲
協会が昨年(筆者注:1971(昭和46)年)十二月に設けた
土俵の”目付け役”。(後略)
(1972(昭和47)年3月25日付報知新聞より)

今から42年前の1972(昭和47)年三月場所で監察委員に
よって高砂(元朝潮)、佐渡ヶ嶽(元琴錦)の両師匠が
厳重注意を受けた一番がある。12日目に組まれた大関
同士の取組前の山対琴桜戦である。前の山はこの場所
カド番で11日目まで5勝6敗とピンチ。一方琴桜は7勝
4敗と勝ち越しが可能なところまできていた。この当時
はほかに清国、大麒麟と4人の大関がいたが、優勝争い
どころか1ケタ勝利が多かった。大関互助会という言葉も
とびかっていた。

さて問題の前の山対琴桜戦はぶちかましを得意とする
琴桜がふわっと立つ。前の山はおなざりの突っ張りから
双差し。前の山が寄り立てて下手投げで勝利した。琴桜
はほとんど無抵抗でころがった。

この一番に監察委員が動かざるをえなかった。当時の
監察委員のメンバーは委員長の花籠(元大ノ海)、以下
三保ヶ関(元増位山)、高島(元三根山)、大山(元
松登)、片男波(元玉乃海)、鏡山(元柏戸)である。
監察委員がくだした結論は相撲内容は悪くないが、立ち
合いは2人とも気力が無かった、という不可解なもので
あった。相撲は立ち合いがすべてといっている日ごろの
発言と相反するものであった。

ファンからは無気力相撲ではないか、とういう電話が
あり、相撲内容も無気力相撲と判定して少しもおかしく
ないという識者のコメント、マスコミの論調であった。
だが、協会は無気力相撲を認めたくないために立ち合いは
無気力だが、内容はそうでないという形をとった。従って
罰則規定の除名・引退勧告・出場停止・減棒・けん責を
適用しないという奇怪な判決となった。

勝った前の山は翌日から休場し、大関から転落が決定。
これは監察委員の勧告ではなく、師匠高砂(元朝潮)の
権限ということであった。もちろん、前の山はどこも
負傷していない。琴桜は強行出場に踏み切った。どうも
意を汲み取ってくれなかった、という雰囲気があった。
場所後に再処分かともいわれた。

しかし、なぜ42年前の事実上の無気力相撲を今取り上げ
たか。それは次のテーマである「八百長問題、その後」を
取り上げるための布石であり、考えてなければならない
重要な問題であるからだ。
<写真は無気力相撲を報じた記事>
無気力

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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