大相撲

大関考 昭和・平成の名大関は清水川一人

2014年1月3日

これまで2回の検証で大関としての実績不足が証明
されたが、例外はないか。1932(昭和7)年5月場所
から1937(昭和12)年5月場所まで大関を務めた
清水川に着目してみる。玉錦時代、11日制(最終場所
のみ13日制)、系統別総当りのもとで戦った成績は
繰り返しになるが
優勝争い12場所中4場所、優勝2回、
大関勝率6割4分9厘で1場所平均7.139勝-3.861敗、
休場は0、負け越し3回。

「名大関は清水川一人である」と言ったのは杉山
桂四郎氏である。杉山(桂)氏は監察委員を八百長
Gメンとよんだり、燃える要素があると強い北の
富士を循環気質と表現した。

「昭和では最強の大関」と言ったのは三宅充氏
である。大相撲の問題点を斬りまくった方である。
鋭い評論でなる両者にそうまで言わせている。これに
平成の大関が加わっても変らないのは平成の大関の
成績が証明している。

近年、親方(元羽黒山=安念山)夫妻と衝突した
双羽黒、野球賭博の琴光喜、八百長で数多くの力士が
追放(形は強制引退)され、蒼国来以外は協会に復帰
できなかった。

ところが、清水川は復帰を果たしている数少ない
一人なのである。彼の成績をみると1927(昭和2)
年後半2場所を全休している。また、1928(昭和3)年
一月場所後の成績がない。派手な私生活の乱れから
本場所をさぼった結果、協会から破門処分を受けた
のである。

人を介して復帰をはかったがままならなかった。
その清水川がなぜ復帰できたのか。それはすさまじい
犠牲の上で実現したのである。父親が死をもって
復帰を嘆願するという前代未聞の事件がおきた。
この異例のできごとに協会がようやく復帰認めた
のである。清水川は1929(昭和4)年一月場所十両
付け出しで復帰した。名大関、昭和最強大関誕生の
裏にはこうした背景があったのである。

<写真は清水川の絵葉書>
清水川絵葉書

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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