二所ノ関の系統は現在14部屋に及んでいる。二所一門の繁栄はいか
にもたされたのか。

二所ノ関部屋の祖は2代目海山である。その弟子玉錦が一大で二所
ノ関部屋を大きくしようとしていた。小部屋の悲哀に泣いた玉錦は
弟子集め、その育成に熱心に取り組んだ。関取の玉ノ海、佐賀ノ花
をはじめ幕下以下に若ノ花(後の大ノ海)、神風、福住(後の玉乃
海)、琴錦ら60人くらい弟子がいた。しかし、玉錦は志半ば昭和13
年暮れ急性虫垂炎で帰らぬ人となった。

横綱玉錦急逝後二所ノ関部屋の跡を継いだのは現役の玉ノ海であっ
た。昭和14年春場所前二枚鑑札(現役と師匠を兼ねる制度で現在は
禁止されている)としてスタートした。時代は悪い方向に向かって
いた。戦争中部屋は消失して再建には大変な苦労がついてまわった。
また食糧事情は悪かった。
戦後の混乱期に部屋をいかに維持運営するか、二所ノ関(元玉ノ海)
は一案を打ち出した。それは部屋を旅館としても運営し、疎開先の
尼崎市郊外での食糧増産、力士の副業を提案した。だが、力士の思
わぬ反対にあった。まず、何の相談もなかったこと。次に土俵に専
念しなくてどうして力士といえるのか、であった。二所ノ関(元玉
ノ海)はかつての弟弟子の佐賀ノ花に部屋をゆずって相撲界を離れ
ることになった。38歳のときだった。
玉ノ海の親方時代は多難で苦難だらけだったが、その中で一大方針
を打ち出していた。幕内にまでなった者は自分の弟子を持ち、引退
後は分家独立して部屋を持てという画期的なものだった。玉ノ海の
二所ノ関はなぜこういう方針を打ち出したのか。伝え聞くところ、
部屋付きの親方が部屋持ちの親方の足元にひざまづき、靴の紐を結
んでいた光景を見たからだという。つまり部屋を持たない親方はお
べんちゃらでもいわなければ相撲界では身の置き所がない。しかし、
弟子を強くすれば弟子の光は親方の功績になる。この指針が二所ノ
関一門の繁栄につながっていった。

元佐賀ノ花の二所ノ関の最大の功労は大鵬を育てたことである。新
入幕の頃から将来の大物を予感させ、大横綱にした。英才教育の成
果であった。大鵬の出現で二所ノ関部屋は花開いたともいえる。ま
た大麒麟を大関に育てた。しかし、二所ノ関の破滅は元佐賀ノ花の
死後、本人の予想もしない形で露呈した。