一月場所、北青鵬が突然途中休場した。今思うとこれは出場停止の
意味合いが強かった。弟弟子への暴行が公になったのは場所後だっ
た。宮城野(元白鵬)部屋が閉鎖に追い込まれ、親方・力士が伊勢
ヶ濱部屋に移籍することになった。
一月場所、高安が1場所で2度休場した。七月場所では十両の尊富
士が1場所で2度休場した。この記録事態が珍しいのだが、1年で
2度出るという稀なケースとなった。
三月場所、尊富士が新入幕優勝を達成した。これは公式優勝制度で
は初めてのことである。公式優勝制度は大正15年に始まった。よく
110年ぶりの新入幕優勝というがこれは間違いである。メディアのい
うことを鵜呑みにしてはいけない。
明治42年夏場所国技館開設とともに始まったのは時事新報社による
幕内最高成績者の優勝額を国技館に掲げる制度だった。対戦相手が
休場すれば自分も休場扱いになった。引き分け、預かり、無勝負が
あり、とても優勝を争う環境でなかった。当時の相撲ファンはこの
制度に対する関心が薄かった。公式優勝制度とともに不戦勝不戦敗
制度、取り直し制度ができた。
五月場所、先場所優勝の尊富士が全休した。平幕優勝では初めてで
ある。照ノ富士と貴景勝が初日出場して2日目からそろって休場し
た。初日の相撲でケガしたというわけではなく、唖然とした。十両
では北の若・島津海が初日不戦敗4日目から出場となった。そろっ
ては珍しい。