近年解説者として姿を見せることがなくなった北の富士さん。十一
月場所中、突如訃報が伝えられた。82歳の生涯であった。80歳以上
生きた横綱としては6人目であった。力士・親方・解説者としての
一生を改めて振り返ってみる。
北の富士は昭和39年一月場所入幕した。その前場所3人目(当時)
の十両15戦全勝優勝を達成している。その勢いは幕に入っても変わ
らなかった。連戦連勝、終わってみれば13勝2敗と15日制になって
から新入幕力士の最高成績となった。翌場所は小結だった。
大関が豊山一人で1ケタ勝利が続いていた。そんななか北の富士は
今ではありえない3場所28勝で大関に昇進した。昭和41年七月場所
後のことであった。そして昭和42年一月場所後事件はおきた。
北の富士は出羽海(元出羽ノ花)部屋に所属していた。今の相撲フ
ァンは信じられないかもしれないが、出羽海部屋は分家独立を許さ
ずという不文律が元両国=前名国岩の出羽海以降長い間支配してき
ていた。次の出羽海は自分という思いが元千代の山の九重にはあっ
た。だが、それは大関佐田の山が出羽海の市川家に婿入りしたこと
によって打ち砕かれた。
ここに至り九重は独立の腹を固めた。独立に際し、同郷(北海道)
の北の富士、禊鳳、松前山の気持ちを確認する必要があった。北の
富士が上京したとき、駅まで千代の山が迎えにきていた間柄であっ
た。そして九重は秀ノ山(元笠置山)を通じて独立を申し入れた。
出羽海は低頭する九重を前にし、脇を部屋付きの親方衆がすわる中
で言った。「君の申し入れた部屋の分離を承認する。ただし、要求
した力士のなかに親が反対している者が3人いるから残すように。
あとはよろしい」英断だった。
九重の申し入れがほぼ受けいれられたカタチになった。だが、出羽
海はこう続けた。「分離によって君と所属力士は出羽海、春日野と
いった一門からはずす。いいな」名門からの破門宣告であった。い
ささか時代がかった光景であった。
出羽海の英断は次の理由が考えられた。
1.お家騒動になっては相撲人気に大変なマイナスであること
2. 認められなければ九重は力士を連れて脱退覚悟であったこと
3.そうなれば協会裁定で出羽海・九重の両者に謹慎の可能性がで
て醜態を世間にさらしてしまう結果になること
4.北の富士らの決意は固く、最悪髷を切る覚悟であったこと
5.新聞に九重とともに行動する力士の名前が出てしまい、出羽海
部屋にいづらい流れになったこと
6.将来佐田の山が出羽海部屋を継ぐにあたり、不満分子を一掃で
きること
だが、破門独立直後の三月場所、思いもかけないドラマが待ち受け
ていた。
(この項目続く)