MENU

年間最多勝の変遷4

昭和29年、蔵前国技館が完成すると昭和30年
夏場所10日目に天覧相撲が実現した。その
夏場所千秋楽、大内山のやつでのような手が
栃錦を襲う。栃錦は防戦一方でたじたじ。
最後は飛び上がるように大内山の首を取った
栃錦がはなった首投げに大内山は弧を描いて
土俵に沈んだ。秋場所は横綱千代の山と関脇
若ノ花が17分に及ぶ死闘の末引き分けている。
その昭和30年の年間最多勝力士は大内山で
あった。横綱は4人いたが、成績にムラが
あり過ぎた。

<大内山のブロマイド>

昭和31年夏場所、大関若ノ花が初優勝を達成
した。若ノ花の人気はすさまじかった。昭和
3大人気力士に双葉山、若乃花、貴ノ花を
あげる方がいるほどである。秋場所を前に
悲劇が若乃花を襲った。愛児が煮えたぎる
ちゃんこをかぶってしまった。手当てのかい
もなく小さな命は天にめされてしまった。

若ノ花は数珠をかけて場所入りした。その
相撲は鬼神のごとく、相手をねじふせて連戦
連勝。だが、またしても若ノ花を不運が襲う。
13日目高熱に襲われて休場。千秋楽は出場
するつもりだったが、再び高熱で休場となっ
た。だがこの年、若ノ花は初めて年間最多勝
力士となった。それも1場所平均12勝以上
となる49勝10敗1休の好成績であった。

<若乃花のブロマイド>

昭和32年5月、出羽海(元常ノ花)理事長の
自殺未遂事件がおきた。かなり悲惨でショッ
キングな事件だった。出羽海(元常ノ花)
理事長の自殺未遂についてはかつてふれた
ので詳細はそちらを参照していただきたい。
かわって理事長に就任したのが時津風(元
双葉山)であった。この年は福岡開催が加わ
り年5場所となった。横綱栃錦が4回目の
年間最多勝に輝いた。ただ、これまで1度も
1場所平均12勝に達したことがなく、いか
にも物足りなかった。

昭和33年名古屋開催が加わり、年6場所制と
なり現在にいたっている。一月場所、優勝
した大関若ノ花の横綱昇進をめぐり横綱審議
委員会は4時間に及び激論につぐ激論となっ
た。そんな中で横綱若乃花が誕生した。当の
若乃花は「困ったなあ」と頭を抱えていた。
横綱は成績が悪ければ引退しかない。多くの
親兄弟を抱えてまだ引退するわけにいかなか
った。これを新聞でみた栃錦は「鬼といわれ
ていたが、若関も人間だね」と感想をもらし
ていた。この年は若乃花が75勝14敗1分の
好成績で年間最多勝力士となった。

<栃錦のブロマイド>

昭和34年は栃錦・若乃花の黄金時代であった。
五月場所千秋楽、1敗の若乃花が全勝の栃錦
を本割・優勝決定戦で撃破という予想外の
展開で劇的な優勝を飾った。七月場所は栃錦
が14日目全勝で優勝を決めた。栃錦の父が
名古屋の祝賀会に出席するために小岩の自宅
をでたところオート三輪にはねられ、帰らぬ
人となった。悲報のなか栃錦は千秋楽も勝っ
て初の全勝優勝を成し遂げた。この年、最終
場所の十一月場所、千秋楽の栃錦対若乃花戦
の勝者が年間最多勝となる展開となった。
栃錦が勝って77勝13敗で5回目の年間最多勝
力士となった。

(この項目続く)

デルタ株の猛威で引退相撲の行方が心配です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次