双葉山対玉ノ海戦は、双葉山が69連勝の途上
であったことも加わって、昭和11年夏場所の
初顔から5連敗であった。それでも唯一勝っ
たときがあった。昭和14年春場所である
実は昭和14年春場所は歴史的な場所となった。
無敵双葉山が新鋭安芸ノ海に敗れ、69連勝で
ストップしたのである。当時、双葉山が敗れ
ることを誰一人想像できなく、驚きをもって
迎えられた。この場所双葉山はアミーバ赤痢
にかかっていて体調が悪く、4敗していた。
その4敗目は玉ノ海が初めて双葉山に勝った
一番であった。
玉の海梅吉氏は語る。勝つには勝ったが、
わたしはその一番をほとんど覚えていない。
ただ無我夢中でとったというだけで、翌日の
新聞にのった剣ヶ峰においつめている写真を
みて、はじめて(中略)わかったような次第
である。
玉の海梅吉氏は双葉山の取口に関して、
次のように述べている。彼の相撲には、よく
いわれるところの”型”があった。わたしは
それを何回となく体験している。いかに攻め
つけても、ジリジリと攻め返されて、いつの
間にか右四つ、左上手の相手十分の体勢に
なっていた。知らず知らずのうちに型にはめ
られていたのだ。そしていったんこうなると、
もうどんなにもがいてもダメだった。
また、双葉山の取口として常にどっしりして
いた腰があげられる。再び玉の海梅吉氏の
言葉を紹介しよう。双葉山はどんなときにも
腰がおりていた。つまり割れていた。だから
くずれない。くずれないからつけこめなかっ
た。彼は寄るにしても、この割れた腰を使っ
て、相手を追い詰めた。(中略)うっちゃり
を得意とするうるさい相手には、用心して
つるか、寄りながら左上手から投げた。この
投げがまた心憎い。前に出ながら、起こして
おいて投げた。だから、万に一つの仕損じも
なかった。
さらに玉の海梅吉氏は付け加える。どんなに
動いても下半身がくずれない。これがいう
ならば、技術面での双葉山のもっとも強み
であった、とわたしは思う。
双葉山対玉ノ海戦は昭和14年夏場所が最後に
なってしまった。昭和15年から東西制が復活
して、立浪部屋と二所ノ関部屋は同じ方屋に
なったため、対戦がなくなってしまった。
そのため、永遠に失われてしまった。
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