横綱玉錦急逝後二所ノ関部屋の跡目をどうするかという
問題が残った。二子山親方(元土州山)かベテラン海光山
という声もあった。しかし、力士・親方・関係者の総意で
人望と信用のある玉ノ海が二枚鑑札(現役と師匠を兼ねる
制度で現在は禁止されている)として二所ノ関部屋を
継ぐことになった。1939(昭和14)年春場所(一月)前の
ことであった。
玉ノ海というと親方としてよりも玉の海の名で相撲放送の
解説者として親しまれた人のほうが多いと思う。独特の
語り口で相撲のあり方、力士の心のありようを語った。
部屋を継いだものの、横綱玉錦亡き後、部屋の看板は
ない。本場所は年2回、それ以外は一門別に巡業をおこ
なう。これは独立採算制であるから玉ノ海兼二所ノ関
親方の部屋経営は多難であった。しかも1941(昭和16)年
12月8日から太平洋戦争が始まり、約3年8ヶ月続いた。
戦争が激しくなった1943(昭和18)年後半、巡業はまま
ならなくなった。食糧事情が悪化する中、玉ノ海兼二所
ノ関親方は100人を超える弟子をかかえていた。そんな時、
兵庫県知事から衣食住の面倒をみようということで午前中
は勤労奉仕、午後は慰問相撲をおこなうということで
玉ノ海兼二所ノ関親方は尼崎を本拠にする決心をした。
しかし、これは協会の大反対にあった。そんななか、切羽
詰っている状況を藤島親方(元常ノ花)に話すと理解し、
陰ながら力をつくしてくれた。
1945(昭和20)年3月東京大空襲で二所ノ関部屋は焼失
する。そこで杉並のお寺真盛寺を借りて本場所にそなえた。
力士玉ノ海は休場が続き、1945(昭和20)年いっぱいで
現役を引退した。相撲界自体が大変な時期で、部屋を
もつのは苦労の連続の情勢だった。
戦後は部屋の再建のため、資金繰りを主な弟子たちと
奔走した。戦後最初の番付によると大関佐賀ノ花をはじめ
琴錦、海山(神風)、大ノ海が幕内力士として活躍して
いた。
1949(昭和24)年暮れ、部屋再建の見通しがたつも二所
ノ関(元玉ノ海がこの約1年9ヶ月後の1951(昭和26)年に
相撲界を離れることになる。そこには様々な理由が考えら
れる。
ノ関(元玉ノ海がこの約1年9ヶ月後の1951(昭和26)年に
相撲界を離れることになる。そこには様々な理由が考えら
れる。
1946(昭和21)年に占領軍が玉ノ海の二所ノ関を戦争
犯罪人容疑者として大村警察署に身柄を拘束した。
玉ノ海の二所ノ関のどの部分が戦争犯罪人容疑者として
みられたのか、本人でさえまるでわからなかった。釈放後、
協会から事情説明を求められたが、答えようがなかった。
このときの協会の冷遇が一因といわれている。
このときの協会の冷遇が一因といわれている。
部屋の路線をめぐる対立もあった。戦後の混乱期に部屋を
いかに維持運営するか。二所ノ関(元玉ノ海)は部屋を
旅館としても運営し、疎開先の尼崎市郊外での食糧増産、
力士の副業を提案したが、力士の反対にあった。ひとつは
何の相談もなく、一方的に決めたこと。もうひとつは土俵
に専念しなくてどうして力士といえるのか。部屋の維持
費用はもっと後援者の力を借りるべきと両者にの見解が
分かれたことも一因であった、、
こうして二所ノ関(元玉ノ海)はかつての弟弟子の佐賀
ノ花に部屋をゆずって相撲界を離れることになった。
38歳のときだった。
玉ノ海の親方時代は多難で苦難だらけに聞こえるが、
玉ノ海の二所ノ関は一大方針を打ち出していた。幕内に
までなった者は自分の弟子を持ち、引退後は分家独立して
部屋を持てという画期的なものだった。この指針が二所
ノ関の繁栄になっていった。
ところで、玉ノ海の二所ノ関はなぜこういう方針を打ち
出したのだろうか。伝え聞くところでは部屋付きの親方が
部屋持ちの親方の足元にひざまづき、靴の紐を結んで
いる光景を見たからだという。つまり部屋を持たない
親方はおべんちゃらでもいわなければ相撲界では身の置き
所がない。しかし、弟子を強くすれば弟子の光は親方の
功績になる、ということがきっかけだったという話である。