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玉の海を偲ぶ

玉の海が現役で急死したのは昭和46年10月18日だった。今から約53
年前のことである。玉の海の相撲を見た方は限られてくるほど年月
は経ってしまった。玉の海の相撲を見た者として改めて思いつくま
ま記しておきたい。

玉の海は横綱からの四股名である。それ以前は玉乃島であった。大
関で2度横綱になるチャンスがあったが、決定打にかけ逃していた。
昭和44年、横綱柏戸が七月場所引退し、横綱大鵬は晩年にはいって
いた。

そんな中で北の富士が十一月場所、昭和45年一月場所連続優勝して
横綱に昇進した。北の富士が12勝-13勝優勝-13勝優勝に対し、玉
乃島は13勝優勝-10勝-13勝優勝同点であった。玉乃島は明らかに
見劣りしていた。だが、横綱は大鵬がひとりであり、晩年だったこ
と。さらに以前横綱のチャンスを逃した経緯を加味され横綱に推挙
された。

<玉の海>

横綱になって玉の海に改名した。師匠も玉乃海だったが、許諾を求
めた方は解説の初代玉ノ海であった。解説者としては玉の海を名の
っていた。

横綱になって玉の海の相撲が安定したのは4場所目からだった。め
ったに負けないほど強かった。北の富士はスピ-ドで取る相撲だっ
たが、玉の海は腰で取る相撲だった。双葉山と比較する楽しみが出
てきていた。

そんな玉の海は虫垂炎を患っていた。それも早く治療していれば悲
劇は訪れなかったろうに、と悔やまれる。玉の海は持ち前の責任感
から切らずに注射で散らしていた。それが昭和46年五月場所途中か
ら始まっていた。さらに夏の巡業、九月の本場所と長期に渡ってい
た。

<当時の記事>

体調が万全でない中、九月場所7日目の貴ノ花戦は歴史的一番とな
った。貴ノ花の双差し速攻からの外掛けをくって、玉の海の腰がく
ずれた。だが、もう一つの腰で残し、貴ノ花の両腕を抱えて土俵下
にほうり出したのである。二枚腰が発揮された瞬間であった。

玉の海が入院したのは10月4日であり、手術は6日になった。虫垂
炎の手術だから大事にはいたらないと誰しもそのときは思った。だ
が、それから5日後の10月11日、様態は急変した。思いがけず右肺
動脈幹に発生した血栓症が原因で横綱玉の海は帰らぬ人となった。
青年横綱の目は永遠に閉じられてしまった。

<玉の海>

27歳の横綱玉の海の急死。それはあまりにも衝撃的で、これ以上な
い悲しみの出来事だった。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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