大相撲

土俵入り事始め

昭和40年一月場所といえばこれまでの系統別総当た
り制から部屋別総当たり制に変わり、実施された場
所である。これによって本家と分家及び分家同士の
関係による部屋同士の対戦がおこなわれた。なお、
系統は一門とは異なることがものであった。

<玉乃島=玉の海>

ニ所ノ関(元佐賀ノ花)部屋の大鵬と片男波(元玉
乃海)部屋の玉乃島が初日に対戦した。この結果玉
乃島は内掛けで大鵬をから勝利するという劇的なシ
ーンの一番となった。さらに出羽海(元出羽ノ花)
部屋の大関佐田の山が春日野(元栃錦)部屋の横綱
栃ノ海がなんと4日目に対戦している。外掛けにく
る栃ノ海を佐田の山がうっちゃっている。

<大鵬>

もう一つ昭和40年一月場所から始まったものがある。
それは力士の土俵入りである。といっても力士の土
俵入り自体は以前からあった。ただ、それは力士が
ぞろぞろと土俵にあがり、円陣をつくり、柏手をう
って化粧まわしをつまんであげ、土俵を降りるもの
であった。笑っちゃうよ、大相撲!という土俵入り
であった。

これが変化した。行司が先導し、一人ひとりの四股
名・出身地・所属部屋がアナウンスされて土俵にあ
がるようになったのが昭和40年一月場所からであっ
た。土俵をまわり、客席を向いて並んだ。全員がそ
ろったところで内側を向いて柏手をうって化粧まわ
しをつまんで引き上げた。

<土俵入り>

今日見られる土俵入入りの姿である。それはそれほ
ど古くからではなく、戦後約20年弱後から始まって
いた。これによって土俵入りが観客・ファンにアピ
ールできるようになった。大相撲がプロの競技であ
るなら当然の変化であり、好評であった。

 

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

【ブログランキング】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック


【日本ブログ村】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村
  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

-大相撲

Copyright© 土俵の目撃者(毎日更新) , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.