戦後大阪場所が復活したのは1948(昭和23)年10月で
あった。東京は2年前に国技館を占領軍に接収され、
1年前に日本人の立入り禁止となった。この年夏場所は
前年に引き続き明治神宮外苑でおこなった。年2場所
のうちもう1場所が大阪だった。大阪の福島にある協会
所有地に1万5000人収容できる仮設国技館を建て、10月
15日から11日間開催した。大阪の本場所は17年ぶりで
あった。優勝は横綱を目指す東富士と関脇増位山との間で
優勝決定戦になり、増位山がうっちゃりで初優勝した。
翌年の1949(昭和24)年から春・夏・秋と年3場所制に
なった。また夏場所から15日制が復活した。秋場所は
前年同様大阪福島公園仮設国技館で10月9日から15日間
開催された。横綱前田山が5連敗で途中休場して帰京
した。横綱照国、大関増位山も途中休場して盛り上がりに
欠ける場所になった。そんななか横綱前田山が後楽園球場
の日米野球観戦に行き、サンフランシスコ・シールズの
オドール監督と握手する写真が新聞に載った。休場中の
横綱が野球観戦とは不謹慎だ、ということで前田山は
引退に追い込まれることになった。世にいう前田山シー
ルズ事件である。優勝は新大関の千代ノ山が初めて賜杯を
抱いた。
<前田山のブロマイド>
これまで福島公園仮設国技館で開催した大阪場所だが、
交通の便が悪かったので1950(昭和25)年は阿部野に
移して仮設国技館での興行となった。新番付が発表に
なった9月11日に関脇力道山が突如髷を切って廃業した。
また、この場所から仕切り制限時間が幕内4分、十両3分、
幕下以下2分となった。現行制度はこの場所から始まった
ことになる。優勝は横綱照国と関脇吉葉山との間で優勝
決定戦になった。照国が勝って横綱18場所目にしてよう
やく初優勝を達成した。
阿部野の地は1回契約のため、1951(昭和26)年協会は
新たな開催地を見つけなければならなかった。そんな時
大阪府が難波に体育館を建設する計画があり、協会に
話を持ち込んできた。協会は建設に協力するとともに
その地に仮設国技館を建てて9月16日から開催した。
千代ノ山が新横綱として登場したが、不振。横綱東富士
が4度目の優勝を成し遂げた。
大阪府立体育館の完成とともに1953(昭和28)年3月、
大阪で本場所が開催された。以降3月・大阪府立体育館
というカタチで現在まで続いている。
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