昭和7年から系統別総当たり制になった取組
は、昭和15年東西制に戻った。これは出羽海
部屋の力士が半数近くなったことが大きかっ
た。9年ぶりの復活だが、以前の東西制を
知る力士は、男女ノ川、幡瀬川くらいになっ
ていた。
次点は当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、
横綱・大関と対戦のない力士ははずした。
複数いるときは上位力士とした。
この時期は双葉山の円熟期から衰退期であっ
た。双葉山の陰に隠れたのは、羽黒山であっ
た双葉山が昭和20年に土俵を去った後は羽黒
山の時代があった。羽黒山は次点7回となっ
た。双葉山は優勝が多かったので、次点は
2回しかない。
<羽黒山のブロマイド>
昭和22年夏場所から優勝改革として優勝決定
戦がスタートした。これまでは成績が同じ
なら番付上位が優勝者であった。戦後相撲
人気がどん底であったため、相撲協会と記者
クラブが打ち出したアイディアであった。
人気回復のため、昭和22年秋場所から系統別
総当たり制が復活した。当然こちらのほうが、
好取組が増える。年2場所から3場所になる
時期は、東富士、千代ノ山が台頭してくる。
昭和25年からは蔵前仮設国技館を使用し、
興行が安定してきた。優勝のない横綱照國は
昭和25年秋場所の初優勝以前に、次点を5回
経験していた。
年4場所制が始まった昭和28年から年5場所
となった昭和32年までは、栃錦がクローズ
アップしてきた。小兵ながら東富士、鏡里、
吉葉山の重量級を向こうにまわして奮戦した。
鏡里は優勝4回、吉葉山は1回と少ないが、
次点は鏡里6回、吉葉山は4回記録している。
<鏡里のブロマイド>
なお、昭和32年三月場所、前頭5枚目の時津
山は横綱千代の山、栃錦と対戦して12勝3敗
の成績をあげたが、部分対戦のため、次点
からはずした。
(この項目続く)
ビックカメラに行きました。
興味深いテーマをこれからもお届けます。
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