2代目若乃花を元安藝ノ海の永田氏は北の富士級の横綱になれると
みていた。素質・素材はすばらしかった。特に柔軟性はずぬけてい
た。実際は北の湖の陰に隠れ、期待した域まで届かなかった。それ
でも年間72勝以上したことは2回あった。

最初は昭和53年である。大関から横綱に上がった年である。成績は
78勝12敗であった。優勝は1回であったが、北の湖の6連覇を阻ん
だ。もう1回は昭和55年であった。72勝12敗で優勝は1回であった。
優勝は通算4回で物足りなかった。
三重ノ海は横綱になれるとは思っていなかった。一時期うまさに強
さが加わり横綱に昇進した。大関から横綱に昇進した昭和54年であ
る。その年年間73勝17敗をあげた。優勝は1回だった。翌年三重ノ
海は引退した。短い横綱時代のなか、連続優勝と全勝優勝を達成し
たのが最後の花だった。

優勝回数31回を誇る千代の富士。だが、年間72勝以上は3回しかな
い。やはり休場がからむとそうはいかない。千代の富士は新横綱の
場所を休場している。ただ1年で関脇・大関・横綱で優勝する記録
をもっている。
千代の富士が最初に年間72勝以上したのは昭和57年である。横綱3
場所目から8場所目である。成績は74勝16敗で優勝は4回だった。
時代は北の湖から千代の富士時代へと移っていた。

2回目は3年後の昭和60年であった。新国技館がスタートした年で
あった。80勝10敗で4回優勝した。昭和62年もものにした。成績は
72勝14敗4休であった。優勝は3回であった。この後は休場がらみ
で間遠になった。
なお、輪島は休場がありながら優勝した史上初のケースと記した。
千代の富士は2例目である。平成元年三月場所千秋楽不戦敗で休場
しながら優勝した。不戦敗は前日の大乃国戦で勝ちながら脱臼した
ためであった。