貴ノ花が22歳年の離れた兄二子山(元初代若
乃花)に入門したのは、昭和40年であった。
兄二子山(元初代若乃花)は最初入門に反対
した。実の弟若緑で失敗していたし、何より
水泳で中学記録を出していたから、将来オリ
ンピックを目指せる逸材であった。なお貴ノ
花が「水泳では飯がくえない」と言ったと
いうのは伝説であるようだ。結局母の説得で
入門は許されたが、兄弟ではなくあくまで
師匠と弟子の関係として接することになった。
<ザンバラ時代の輪島>
2年連続学生横綱を引き下げて、輪島が初
土俵を踏んだのは、昭和45年一月場所であっ
た。学生相撲は普通初土俵を踏むのは卒業の
三月場所であるのだが、このあたりが普通を
普通と思わない輪島らしいところである。
このとき貴ノ花は幕内の前頭9枚目であった。
貴ノ花と輪島の差は大きくまだライバル関係
ではなかった。むしろ押しの一手の大受が
貴ノ花とともに期待される若手であった。
輪島が入幕したのは、初土俵から1年後の
昭和46年一月場所であった。その間角界の
プリンス貴ノ花は小結・関脇に昇進し、横綱
大鵬を倒していた。
蔵前の星輪島が新小結に昇進したのは、入幕
した昭和46年の十一月場所であった。このと
き貴ノ花は関脇であった。この年の10月安定
した腰で取る相撲の玉の海が亡くなられた。
このことに関しては以下をクリックして参照
していただきたい。
場所となった。一月場所から七月場所まで
関脇以下の初優勝であった。そんななかで
十一月場所貴ノ花と輪島が同日大関に昇進
した。貴ノ花と輪島がライバル関係にあった
のはこの頃であった。元栃錦の春日野は輪島・
貴ノ花に対して「今は完全に互角」と言って
いた。
<角界のプリンス貴ノ花>
新大関の場所、両力士は明暗を分けた。輪島
11勝、貴ノ花9勝であった。そしてこの成績
が今後の2人を暗示していた。この後輪島は
安定した相撲を取り、大関4場所で横綱に
昇進した。貴ノ花は1ケタ勝利が続き、大関
として満足いく成績があげられなくなった。
輪島は横綱で14回優勝した。貴ノ花は大関50
場所を務め、優勝は2回であった。大関昇進
後両力士の差は開いていったが、ただ人気の
点では輪島は貴ノ花に及ばなかった。
旧銀行名の通帳を復活する予定です。
興味深いテーマをこれからもお届けます。
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