大相撲

大阪場所の変遷1

2015年3月7日

1927(昭和2)年東京、大阪の両協会が合併した。春
場所(1月)後、大日本相撲協会は関西で本場所を
2回開催することを決定した。実際開催地をみると広島、
福岡もあり、関西というより西日本といったほうがまだ
正確である。その年の3月大阪市天王寺区上本町6丁目
大軌電鉄停留所の東脇で約120メートル四方の小屋を建て
ておこなわれた。春場所大阪横綱だった宮城山が優勝
しているので人気は高かった。3月14日から始まった
この場所で優勝したのは横綱常ノ花であった。4度目の
優勝であった。
常の花★
<常ノ花の絵葉書>
 
次に大阪場所が開催されたのは2年後の1929(昭和4)年
3月であった。大阪市中之島で3月14日より晴天11日間の
興行であった。前年よりラジオ中継が始まり、仕切り制限
時間と仕切り線が設けられた。これまで制限時間がなかっ
たが、幕内10分、十両7分、幕下5分と決定した。今まで
打ち出しが午後9時近くかかっていたのが、5時40分に
短縮された。仕切り線の間隔は60センチであった。なお、
現在は70センチである。この場所は横綱が全休、途中
休場の中、大関豊国が初優勝を遂げた。
小野川』 大分
<小野川時代の豊国の絵葉書>
 
翌年の1930(昭和5)年大阪市中之島医大跡で3月14日より、
晴天11日間興行が640メートル四方の仮設小屋で開催された。
この場所大阪朝日、大阪毎日新聞社よりその日の好取組に
銀杯が贈られた。横綱常ノ花が10度目の優勝を達成した。
これが最後の優勝となった。また、勝負検査役(現在の審判)
が四本柱に座っている最後の場所となった。翌場所の夏場所
から土俵下に座る現行スタイルになった。

1931(昭和6)年大阪市中之島玉江橋高等工業学校跡地で
10月9日から晴天11日間興行が730メートル四方の仮設
小屋で開催された。この場所は横綱が不在、玉錦以外の
大関大ノ里・能代潟が不振の中、前頭4枚目の綾桜が優勝
した。これが戦前おこなわれた大阪場所の最後となった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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