現代相撲部屋の系統6

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昭和50年3月28日、元佐賀ノ花の二所ノ関が急性白血病で亡くなっ
た。57歳の若さであった。後継者候補は元大関大麒麟の押尾川であ
った。尾川と遺族側との譲渡条件が話し合われた。ところが、話し
合いは金額差から難航した。8000万円(当時価格)の差ともいわれ
た。

佐賀ノ花のブロマイド

決定するまで部屋の長老元十勝岩の湊川が暫定的に二所ノ関となっ
た。暫定師匠というものが認められるものなのか、当時疑問に思っ
た記憶がある。おかみさんは元十勝岩夫人ではなかった。押尾川と
遺族側の未亡人の話し合いはいつまでたっても埒(らち)が明かな
かった。元十勝岩の暫定二所ノ関は五月場所、七月場所と続くこと
になった。未亡人の心境は変化していた。「押尾川には継いでほし
くない」

そんな中予想できないことが起きた。昭和50年七月場で前頭筆頭二
所ノ関部屋の金剛が優勝したのだ。大波乱の場所、あれよあれよと
抜け出して13勝2敗の成績をあげた。未亡人の頭に元大麒麟の押尾
川の線は完全になくなっていた。思いがけない金剛の優勝。未亡人
は次女と金剛を婚約させ、二所ノ関部屋の後継者を金剛引退後に任
せることにしたのである。

当時の記事

これでは押尾川の立場はない。押尾側は行動に出た。九月場所(14
日初日)前の4日、押尾川は協会(理事長春日野=元栃錦)に押尾
川部屋認可の嘆願書を提出した。青葉城、天龍ら16力士を連れて谷
中の瑞輪寺(ずいりんじ)に立てこもった。二所一門の花籠(元大
ノ海)が調停に乗り出し、押尾川部屋独立を認めるよう元湊川の二
所ノ関に話した。押尾川部屋は場所後独立できたが、移籍人数は青
葉城を含む6人と少数になった。

右から金剛・大鵬・大麒麟

翌昭和51年5月金剛と次女は晴れて結婚式をあげた。しかし、次女
は金剛の元を離れて別の方と生活するようになった。結局、金剛は
未亡人の養子という形をとった。この年の九月場所前、金剛は引退
し、正式に二所ノ関部屋を継いだ。27歳の引退だった。九月場所後、
押尾川についていったが、裁定で二所ノ関部屋へ戻された天龍が全
日本プロレスに入門した。元金剛に嫌がらせを受けていたことを後
に告白している。もつれた二所ノ関部屋の後継者問題は思いがけな
い方向へむかった。

欲望、分裂、怨恨、犠牲を生み出した二所ノ関部屋の後継者騒動。
金剛が継いでから36年後、元金剛の二所ノ関が自ら終止符をうった。
弟子の数は最後3人しかいなかった。部屋の消滅とともに力士は全
員引退した。本家二所ノ関部屋は金剛の代、あっけなく消滅した。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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